明日、前歯を二枚すっかり削り取ってしまいますので、まるでいまはおばあさんのようになってしまいますから、義歯が――いいえ、総入れ歯じゃございませんわよ!
あら、ひどいことをおっしゃる! 私だってまさか若い娘に総入れ歯なんてさせませんわ……もしもし、前歯の二枚だけ差し歯にするものですから、それが綺麗に出来上がるまでは、どなたにもお目にかかれないと本人が申すものんですからねえ。
はあ、はあ、はあ、オホホホホ、どうかそのようにお含みおきくださいませ。
失礼いたしました。
それではさようなら」
とお母さんは電話を切った。
僕はあわてていったん玄関の外へ引き返し、それから改めて、
「お母さん、ただいま!」
と、何食わぬ顔をして家に入った。
「お帰りなさい」
とお母さんは美味しそうなドーナツを出してくれた。
学校から帰ってきたらおやつをご馳走になるというのは、我が家の決まったルールなのだ。
最近は課外授業が忙しくて夕食の直前になってしまうことも多いけれど、せっかくの権利を放棄して悪い前例を残すのも考えものだし、何より本当にお腹がペコペコだったのだ。
「お母さん、絹子さんは芳夫さんと結婚なさるんですか?」
と、僕はドーナツをもぐもぐ食べながら、思い切って訊ねてみたのだった。「さあ、どうでしょうかね」
「でもお父さんがこの間、芳夫さんにお嫁さんをもらいなさいって勧めたじゃありませんか?」
「あれは冗談だよ。
子どもがそんなことを口に出すものじゃないの」
とお母さんは僕をビシッと押さえつけてしまった。
とにかくその翌日、絹子さんは前歯を二枚すっかり削り取ってきて、
「いやだなぁ、私、まるでおばあさんのようでしょう?」
とばかりに、鏡ばかりを覗き込んでいた。
好いと思っても鏡を見る。
悪いと思っても鏡を見る。
やっぱり鏡は女性の命なのだ。
僕はお母さんの電話のやり取りを思い出して、一つお返しにからかってやろうと思ったその矢先、ちょうど晩にお客さんが来たので、さっそくそれをうまく利用してやったのだ。
お母さんだけでなく、絹子さんまで僕を子ども扱いしてくるのが、少し不満だったからである。
お客さんをお父さんの部屋へ案内してから茶の間へ戻ると、
「いまのは誰だったの?」
とお母さんが訊いたので、
「四谷の芳夫さんが……」
と言いかけて、ラジオを聴いていた絹子さんのほうをチラッと振り返った。
すると絹子さんはまるでバネじかけのようにびーんと跳ね上がったが、
「……によく似た若い人で、会社の関係の人だよ」
とあとから付け足したら、安心したのか元の姿勢へと戻っていった。
ある日、絹子さんが僕の勉強部屋へやってきて、色々と話し込んでいるうちに、受験勉強用の本をパラパラとめくりながら、
「こんなにたくさんの本を読むなんて、源太郎さんも大変ね」
と優しく慰めてくれた。
「本当に嫌になってしまいますよ」
「でも、あなたみたいに頭がいい人なら大丈夫よ。
いつも一番なんでしょう?」
「学校の成績なんて、あてになりませんよ」
と僕は謙遜してみせたが、絹子さんは、
「やっぱり一番や二番を取る人は実力があるんだから、安心できるわよ」
と言ってくれたあと、
「あの芳夫さんも、すごく頭がいいのかしら?」
と尋ねてきた。
もともと僕の勉強に同情してくれたわけではなく、四谷の芳夫さんのことが知りたくて話題をそこに持ち込みたかったのだ。
「そうですね。
あの人くらいなら、まあ頭がいいほうに入るんじゃないでしょうか」
とお父さんの評価をそのまま紹介してあげた。
「銀行はおやめになったんだそうですね?」
「ええ。
会社をやめさせたらあの人の右に出る者はいませんよ。
三越だって二月か三月でやめましたからね」
「まあ、三越にお勤めになっていらっしゃったの?」
「ええ。
でも、越後屋の長松どんじゃ満足できないんだそうです」
「ふふっ、面白いこと言うのね、源太郎さんは」
「いいえ、本人がそう言ったんですよ。
嫌になるとすぐに、もっともらしい理屈をすぐつけるんですから」
「銀行のほうはどうしてやめられたの?」
「金網の中に閉じ込められているのは動物園みたいで、自分の性格に合わないんだって言っていましたよ」
「まあ。
それで今度は学校へ行かれるんですね?」
「ええ」
「源太郎さんとはいとこ同士なのね?」
と、絹子さんはほかに訊くことがなくなったものだから、分かりきった質問でなんとか話を繋ごうと一生懸命だった。
「ええ。
子どもの頃からよく知っているんです」
「あの方、今まで何か悪い噂とかはなかったの?」
「落第のことですか?」
「ううん、ほかのことで」
「カンニング?」
「違うわよ!」
「ああ、分かった。
お金を使いすぎたかっておっしゃるんでしょう?」
「まあ、だいたいそんなところよ」
「人柄は僕が保証しますよ」
と僕はきっぱり断言した。
「ときどきこっちに来るの?」
「学校を卒業してからは、めったに来ませんね」
「慶応大学なんだってね?」
「ええ、今度海外留学をして大学の先生になる予定だから、すごく大喜びしていますよ」
「いつ留学なさるの?」
「二、三年の中だと言っていました」
「博士号も取るのかしら?」
「取りますとも。
お気に召しましたか?」
「もう、いやらしいなあ、源太郎さんは!」
「僕、知っていますよ」
「何を?」
「何をって、そりゃあ……」
「子どもがそんなことを言うものじゃありませんよ」
とピシャリと窘めて、絹子さんはスタスタと部屋を出ていってしまった。
聞きたいことだけ聞いていくなんて、本当に自分勝手な話だ。
結婚を控えた女性の方はこれで十分に観察できたから、今度は男性の方を研究してみようと思い立ち、僕は別の日曜日に四谷へ向けて電話をかけた。
「芳夫さんですか? はい、はい。
僕、大内です。
源太郎です。
いや、どういたしまして。
ところで芳夫さん、大変恐縮なんですが、ちょっとお願いがあるんです。
ええ、もう入学試験が近づいて毎日目が回るような忙しさなんですが、代数がどうしても分らなくて困っていまして……ええ、代数の問題ですよ……お暇なときに一晩教えていただけないでしょうか?」
「よし、今からすぐ行く!」
「いえいえ、こちらに来てもらうなんて申し訳ないですから、僕のほうから伺いますよ。
明日の晩あたり……もしもし、もしもしもし、もし、もし!」
といくら呼びかけても返事がないのは、すでに電話を切ってしまっていたからだった。
本当に気が早すぎる人だ。
こちらから観察しに行くはずが、向こうから来られてはかえって申し訳ない。だから僕は、もう一度かけ直すことにした。
「もしもし、畑さんですか? 僕、大内ですが、もう一度芳夫さんに電話口まで出てきてもらえますか?」
「少々お待ちください」
と、やっぱりさっきの女中さんだった。
「はい」
と少し待たされたあと、
「もしもし、若旦那さまは急用ができたとかで、もうお出かけになってしまいました。
実は門のところまで追いかけたんですが、ちょうど走ってきた電車に飛び乗っていらっしゃったところでしたのよ」
という返事だった。
「そうですか……」「それじゃあ、もういいです。
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