玄関で見送ったあと、絹子さんは、
「面白いおじさんね」
と楽しそうに笑っていた。
「銀座から三越へでも参りましょうか? クリスマスの装飾できれいですよ」
と僕が提案した。
「それじゃあそうお願いいたしますわ。
ちょっと待ってくださいね」
と絹子さんは離れへ戻り、お出かけの支度を始めた。
「源太郎や、絹子さんはね、隆鼻術と美眼術と義歯の手術をしたくて出かけたそうですよ。
説教をしてやってくれって伯父さんから手紙が来ているのよ」
とお母さんはその間に僕に話しかけた。
「そうですか、なるほど」
と僕は、先ほどのお父さんによる熱烈な隆鼻術反対の演説を思い出した。
「それでお前に美容院への案内を頼むかもしれないから、気をつけてくださいよ。
男なんだから、そんなところは分かりませんって言うのよ」
「僕がしっかり説教をしてあげますよ。
さっきのお父さんのお話は、みんな嘘なんですか?」
「嘘ですとも!
お父さんなんかが美容院の先生なんて知り合いにいるわけがないじゃありませんか。
口から出まかせですわ」
と、美容術に関しては、お母さんはお父さんに対して少し反感を持っていた。
「僕も一つ、嘘をついて引き止めてみますよ」
「でも、あの子はなかなか賢いから、お前の手には乗らないかもしれませんよ」
「鼻はそんなに低くないんですけどねえ」
「いやが上にもきれいになりたいんでしょうよ。
歯医者にも寄るなんて言うけれど、家のかかりつけの歯医者があるって言っているのに」
「そうしましょう。
歯が悪いんですかね?」
「二本だけ並びが悪いっておっしゃるんだけど、どう見てもそうは見えないのよ。
家で甘やかすから、あれこれとわがままを言うんでしょうね」
「よし、一つ作戦計画を立てておきますよ」
と、僕は親の許可をもらって堂々と嘘がつけるので、大いに興味をそそられた。
自分の容姿に自信がある人だけに、絹子さんは僕が待ちくたびれるほどお化粧に手間取った。
二人連れ立って家を出たのは十時過ぎだった。
久作さんたちの時とは全く違う。
先方が令嬢で、こちらはまるでお供の書生のような関係だ。
停留所へ向かう途中、
「源太郎さん、私、三越よりもどこよりも、行ってみたいところがあるんですのよ」
と絹子さんが切り出した。
僕は、「来たな」と思ったが、そこは駆け引きとして、
「どこへでもお供しますよ。
いったいどこですか?」
と受け答えした。
「本郷の真砂町よ」
「お友達の家ですか?」
「いいえ、中央美眼院。
眼科よ」
「ああ、あそこですか?」
「ご存知なの?」
「ええ」
「どうして?」
と絹子さんはぐいっと詰め寄ってきた。
「友達のお姉さんがあそこで手術を受けたんです」
「どうでしたの、結果は?」
「それが、いけなかったんですよ」
「まあ、どんな風に?」
「ええっと、つまり……」
僕は言葉につまってしまった。
もともと嘘なのだから、どんな風もこうもない。
「一皮めが、二皮めにならなかったのかしら?」
と、幸いにも絹子の方から手頃なヒントを提供してくれた。
「なったんです。
片方だけはね」
「片方はダメだったの?」
「ええ。
片方は以前のままで一重まぶたのままだったんです。
でも、かえってそっちの方が良かったみたいですよ。
二重まぶたになった方は、寝ていても薄目を開けているんだそうですから」
「まあ、気味の悪いこと……」
「やっぱり、あんなものは受けるもんじゃないですね」
とどうにか結論に漕ぎつけて、僕は適当な嘘でもそれなりに言えるものだと自分を心強く思った。
こうして一人の人間を相手にすれば単なる嘘だけど、広く一般の公衆を相手にすればそれは想像力の発揚になる。
小説家を目指す者は、よく観察すると同時に、社会を相手にして真面目な嘘をつく技術も学ばなければならないのだ。
電車に乗った時、絹子さんが、
「美眼術も、やっぱり詐欺師のやり方でしょうか?」
と尋ねてきたのは、僕のついた嘘がお父さんの話と相まって、すっかり効果を奏した証拠だった。
「そんなことはありませんよ」「おできなどができて、まぶたが引っ張られてしまった場合には必要な手術ですからね」
「たしかに、そんなときにはぜひ受けなきゃいけませんよね」
「一重よりも二重のほうがいいものなんでしょうか?」
と、僕は探りを入れてみた。
「いいってわけでもありませんけど、目が大きく見えますわよね?」
「大きいほうがやっぱり引き立ちますよね」
「耳かくしや、はやりの断髪にはぴったりですわ」
「断髪になさるんですか?」
「いいえ」
「でも、手術は受けるんでしょう?」
「うーん、考えものですね。
片方だけ変になったらたまりませんわ。
それに、どっちが自分に似合うのか自信がないんですもの」
と、絹子さんはまるで着物の柄でも選ぶかのような軽い口ぶりで言った。
芝口(しばぐち)で電車を降りて、銀座を歩いた。
ガラス窓のクリスマスの飾り付けが目を引く。
松坂屋を出て、松屋へ向かう途中、
「お嬢さん、坊ちゃん、ちょっと失礼」
と声をかけて、カメラをパチンと向けた男がいた。
「なんでしょうね?」
と絹子さんが尋ねた。
「新聞社の人じゃないですか?」
「おじさんの新聞社の?」
「さあ、どうでしょう?」
と、僕も実はよく分かっていなかった。
松屋でだいぶ時間を取られてしまい、三越で食事をしたのは二時過ぎだった。
それでもまだ家に帰るには少し早かったので、
「どうしましょうか?」
と僕が意見をうかがうと、絹子さんは、
「神田の錦町(にしきちょう)はここから近いですわよね?」
と言い出した。
「電車で行けばすぐですけど、何かあるんですか?」
「でも、おじさんに怒られちゃいますわね」
「隆鼻術のところですね?」
「前を通って見るだけならいいんじゃなくて?」
「ええ。
中に入らなければ大丈夫ですよ」
と、僕は目的地に着くまでの作戦を心の中で練っていた。
しかし、電車がとても混んでいてあまり話ができなかったので、僕は錦町で電車を降りるとすぐに、
「絹子さん、さっき新聞記者があなたの写真を撮ったでしょう? なぜだか分かりますか?」
と切り出した。
「本当に新聞記者だったのかしら?」
「新聞記者じゃなくても同じことですけどね」
「分かりませんわ」
「あれは、きれいな人が来るのを待ち構えていたんですよあら、いやだわ。
源太郎さんまでそんな冗談を言うんだから」
と言いつつも、絹子さんはまんざら悪い気はしない様子だった。
話し合いながらあちこち探して歩いたが、絹子さんお目当ての「東洋隆鼻院」はなかなか見つからなかった。
「もう引っ越しちゃったんじゃないですかね」
と、僕はむしろホッとした。
しかし絹子さんは、
「今月の雑誌にも載っていましたわよ。
まさかこんな汚い路地の奥にあるわけないでしょうけれど……」
となかなか諦めきれない様子だった。
「僕がちょっと探検してきますよ」
「私も行くわ」
と二人で奥へ入っていくと、その一番はずれにある三軒長屋の真ん中に、小さな看板がかかっていた。
「名前ばかり立派で、なんだか拍子抜けね!」
と絹子さんはすっかり呆れてしまった。
東洋隆鼻院の規模があんなに小さかったのは、僕たちにとって何よりの幸運だった。
初級翻訳・親鳥子鳥 第29話
佐々木 邦
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