初級翻訳・いたずら小僧日記 第26話

いたずら小僧日記

見た所音なしそうな人である。
ぼくとお父さんは其芸当を見物に行く。けれどお母さんは疲れているし、そんな危ないものは見るのも嫌だから、ぼくをお父さんに預け、片時も目を離してくれるなと頼んで、ご自分だけ宿屋に引き取った。
フランス人はこの瀑布の上を綱で渡るという。
両手に英米の国旗を持っている。
落ちれば大変だ。
まったく命がけの仕事である。
けれども彼の男は落ちやしまい。
落ちたところでそのまま死にはしまい。
きっと鯉になるだろう。
鯉になって今度はナイアガラの瀑布に登るだろう、等と思っていた。
見物人はヤンヤと喝采している。
フランス人はあれこれと支度に手間取った末、こう申し出た。
何人か私に背負われていくものはないか。
大丈夫だ。
首尾よくいけばその人の名誉は全世界に轟く。
万一間違えがあれば五百円罰金として進呈する。
行く人はないか――さてこれは考えものだとぼくは思った。
彼の軽業師と一緒に対岸まで行けばまったく名声を四海に轟かすことができる。
首尾よくいけば太郎石鹸、太郎ムスク、太郎カラー等ができて、ぼくは随分もてはやされるだろう。
万一間違えがあったにしても五百円進呈すると言うんだから、大した損はない。
幸いお父さんは思い掛けない友達に会ったので、ぼくの方はお留守にして、しきりに談話をしている。
ぼくは連れていってくれと軽業師に頼んだ。
すると軽業師は大層ぼくを褒めて、旗を持たせてくれた。
「目を瞑っているんですよ。
しっかりとね。
何もかも私に委せて安心してればいい。
家で布団の上に寝ている気でいればいい。
下に滝があるなんて思っちゃいけない。
よろしいかね」
悪い時には悪いもので、巡査がやって来てぼくを捉えた。
「滅法界もない。
両親は何処にいます」
多分お父さんを小児虐待の罪に問うつもりらしかった。
するとお父さんは飛んで来て、フランス人を怒鳴りつけた。
もし巡査が止めなかったら、あるいは殴りつけたかもしれない。
ぼくは本当に損をしてしまった。
ナイアガラにいる間はもはや一秒時もぼくの傍を離れられない、これでは苦労を求めに旅行をしたようなものだとお母さんが愚痴をこぼした。
お母さんは膠のようにぼくへ粘着いている。
少しも目を離さない。
ぼくは本当に弱ってしまった。
翌日は歌さんへのお土産を買ったりして、ぼく達は山羊の島を見に行った。
名は山羊の島でも、山羊なんか一疋もいやしない。
けれどもこの辺の流れの急なのには実に一驚を喫した。
見ていても目が眩むようだ。
早く早くと水と水とが押合うためか、水面に一種の燐光が漂って物凄い。
急に寒くなった。
お母さんはぼくをしかと捉えている。
どれほど無鉄砲でも、こんなところへ飛び込むものか。
飛び込みはしないが、水の速力を計るために、ハンカチを投げ込んでみた。
ところへどこかの奥さんが来て、お母さんと談話を始めた。
やはり見物に来たんだ。
御大層な風をしている。
狆を抱いている。
この狆の胸掛けは百合子さんのリボンと同じ品質だと思いながら、ぼくは狆の目を突っついてやった。
「笑いませんか」
と奥さんが振り返った。
チンはくしゃみをするかも知れないが、笑って堪るものか。
「坊ちゃん、狆がお好きですかね。
少し抱いてやって下さる。
私は手が疲れました」
と奥さんがぼくにお茶を抱かせてくれたから、ぼくはすぐに水の中へ放り込んでやった。
奥さんは狂気のようになって泣いた。
子のようにしていた者を殺されたと言って、今にも狆の後を追って飛び込もうとする。
分別な人だ。
お父さんが抱き止めるようにして、お母さんがお詫びをしてようやく宥めた。
泣き顔して帰って行ったが、あれはきっとヒステリーになったろう。
水は一秒に一哩は確かに走る。
狆のお陰でこの事実を発見した。
すべて科学は犠牲によって進歩発達するものだと先生が言っているじゃないか。
宿屋へ帰ってお昼を食べた。
彼の宿屋では何故あんな魚を出したんだろう。
ぼくが死にそうな目に遭ったのは畢竟宿屋の罪科だ。
それをお父さんが、これは珍しい魚だ、この辺でなければ漁れない名物だと言ったのもかなり悪い。
ぼくはご飯を食べながら魚を釣りに行く決心をしてしまった。
食事が済んでからお母さんは昼寝をなさる。
その間おとなしくここで書物を見ているようにと言付けられたから、ぼくは順に書物を読み始めた。
空は青い。
日はよく照っている。
家にいるのは勿体ない。
ぼくは大きな声で読んでもお母さんはすやすや眠ってたから、もはやよかろうと思って、窓から廊下へ出、廊下から外へ飛び下りた。
途中で釣りの道具を買い揃えて、ぼくはかなり水の静かなところに陣取って、釣魚を始めた。
二三箇所試したが、流れが早いから何も釣れない。
それでぼくはだんだん上の方へ行った。
水車のあるところで鉤を下していると、小さい端艇が岸にあるのに気が付いた。
誰も見ていないから、ぼくは、この端艇を借りて、対岸へ行こうとした。
が少し漕ぎ出すと、ぼくは釣り竿を流してしまった。「これは大変なことになったぞ」と思うひまもなく、流れの勢いが強すぎて、ぼくはオールを手放してしまった。
同時に、ボートはすごいスピードで流され始めた。
それがだんだん早くなって、さっきのあの狆の赤いリボンのことを思い出したときには、正直に言うと、ぼくは泣き出してしまった。
今度は科学どころの話ではない。
それに、お母さんのそばでおとなしく本を読んでいればよかったと思ったけれど、もう遅かった。
ボートはぐるぐると回りながら流されていく。
岸では大勢の人たちが大きな声をあげて大騒ぎしている。
けれどもぼくは急流の真ん中にいるんだから、どうしたくてもどうしようもない。
そのうちにぼくは眉間が痛くなって、目をぎゅっとつぶった。
これからは絶対に親の言うことを聞くから助けてほしいと、心の中で神様にお祈りをした。
そしてもうすぐ滝に落ちるだろうと思って、ボートの中にうつぶせになって泣いた。
ドーンと大きな音がして、ぼくの体が前に投げ出されたとき、ぼくはもう死んだものだと思っていた。
でも、岸から人を呼ぶ声がするので、起き上がってみた。
ボートは止まっている。
岩の上に乗り上げて、バリバリに壊れていた。
「しっかりつかまっているんだぞー!」
「岩につかまっていろよー!」
岸には人がいっぱいいる。
けれどもどうすることもできない。
ただ「しっかりしろ、しっかりしろ」と言っているだけだ。
日はもうすぐ暮れそうだった。
学校で習った教科書に、こんなお話が載っている。
ある川へ赤ん坊が滑り落ちて流れていく。
お母さんは気が狂ったようになって、助けを呼びながら、岸伝いに追いかけていく。
岸には大勢の人が測量をしていたのだけれど、「ああ、大変だ」と言うばかりで、誰一人助けに行こうとする者がいない。
行かないんじゃない。
行けないんだ。
その川はものすごい急流だから、自分の命を捨ててかからなければ、とても飛び込めないんだ。
赤ん坊は見す見す見殺しになるところだった。
ところが、命を捨てる気で飛び込んだ青年がいる。
彼は若い測量士である。
命を投げ出してやる仕事に失敗はない。
彼は見事に赤ん坊を助けた。

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