ぼくは以前から、この「ぎしはか」の「は」の字に濁点を打って「ぎしばか」にしてやりたいと思っていたのだ。
だから、さっそくこの大仕事をちゅう公に命じたのである。
「白墨(チョーク)でもいいかい?」
「チョークじゃすぐに消えてしまうだろう。
ペンキじゃなきゃダメだ」
「ペンキなんてどこにもないじゃないか」
「ペンキなら学校にあるよ。
この間から塀を塗り替えているから、少し持ってくればいいのさ」
「筆がないよ」
この野郎、仕事が面倒くさいからって、ないない尽くしですぐに言い訳をする。
「筆ならぼくが持っているよ。
お父さんの大きいのがあるからさ」
あの寺の門には番人がいる。
おまけに毎日たくさんの参詣客がやってくる。
ちゅう公はきっと途中で捕まってしまうだろうと思っていたら、夕方になってちゃっかり成功させて帰ってきた。
ぼくはこれには少しばかり驚いた。
今日の新聞を開いてみると、こんな記事が載っていた。
「一週間ばかり前に天岳寺の境内を通り抜けたら、義士の墓の門札が、何者かの悪戯か『ぎしばか』と書き換えられていた。
その時は笑って見過ごしたが、今日通ってみたら、門札はいまだに『ぎしばか』のままである。
都の名刹(めいさつ)を預かっている当局者は、これではあまりにも無責任と言わざるを得ないのではなかろうか。
(世話焼生)」
無責任って、いったい全体どういうことだろう。
ペンキなんだからそう簡単には落ちやしない。
新聞というものは、「当局者」という言葉と「無責任」という言葉を無暗にセットで使いたがる生き物らしい。
ちょうど、牛肉には葱、柳には蹴鞠(けまり)、ヤソにはお多福、そして森川さんにはお春さん、というふうに、「当局者」と「無責任」も、引き離そうとしても離せないものだと心得ているのだろう。
まったく無責任な連中だ。
この頃はお父さんがものすごく心配そうにしている。
毎日夕方になると小さな新聞が届くのを待ち焦がれていて、それを読んではまた顔を曇らせている。
なんでも、金棒(かねぼう)が下ったのだそうだ。
金棒ってなんだろうと思ってお島に聞いてみたら、それは「株」のことだと言った。
それなら株って何なのと重ねて聞いたら、お島にも分からなかった。
お島は知ったかぶりをする女だけど、実際には何一つ知りはしないのだ。
この間だって、太陽は地球よりも大きいなんていう荒唐無稽な説でぼくと議論をした。
お歌さんまで相手側に加勢するものだから、ぼくはすっかり腹を立てて、最後は大喧嘩になってしまった。
するとお春さんが、太郎さんが泣いちゃうといけないから、地球のほうが大きいということにしておきなさいと取りなした。
もしお春さんがあんなふうに言ってくれなかったら、人類は全員死んでしまわなければならなかったところだ。
太陽よりも小さな地球であんなに大勢の人間の重みに耐えて生きていけるわけがないだろう。
それはさておき、お父さんは最近とても忙しいので、ぼくのことにかまっている暇なんてない。
だからぼくは心底から安心して過ごしている。
掛け軸に落書きをしようが、雑誌の絵をハサミで切り抜こうが、知らん顔をしておられる。
おまけに金棒でも株でも、もっとドシドシ下ればいいのにとさえ思っている。
それに、お春さんは着物の仕度で大忙しなので、滅多に部屋から出てこない。
ただお歌さんだけが、どうしようもない厄介者だ。
何を壊してもお母さんに言いつければすぐ直してもらえると信じ込んでいる。
頭が馬鹿すぎてどうしようもない。
お春さんの使いを頼まれて、森川さんの家へ行った。
何度訪ねても、森川さんはぼくには絶対に何も触らせてくれない。
危ない薬があるから絶対に手をつけてはいけないと言うのだ。
けれども、聴診器だけは無理を言って貸してもらい、書生の診察をしてやった。
あの書生の胸からは、ゴロゴロと変な音が響いている。
まったく妙な奴だ。そのうちに急病人ができたとかで、森川さんは書生を連れて出かけていってしまった。
「ぼくが帰るまでこの椅子に座ってじっとしているんだよ」と言われたので、ぼくはその通りにしていた。
あまりの退屈さに、そのうち首がもげてしまうんじゃないかと思うほど大きなくしゃみが出た。
やっと帰ってきたなと思ったら、そうではなかった。
どこかの家のお手伝いさんが、お薬をもらいにやってきたのだ。
ぼくはどんな薬がいいのかなんて分からないけれど、赤いお薬がものすごく綺麗だったから、その赤い液体を瓶に入れてあげた。
すぐそばに立派な革の箱があったから、きっと中身は宝石に違いないと思って開けてみたら、中に入っていたのは大きな手術用のナイフだった。
ピカッと稲妻のように、まだまだ寒い春の光の中で冷たく光っている。
きっとものすごくよく切れるに違いない。
せっかくだから、何かを切ってみよう。
桜の木を切ったって、嘘さえつかなければいいんだ。
そこへまた、何人か客がやってきた。
本当に、よく人の集まる家だ。
今度は十歳くらいの女の子が、手にトゲが刺さって抜けなくなったと言って泣きながらやってきた。
「もうすぐ先生が帰ってくるからお待ちなさい」と言ったのに、女の子はずっと痛がってばかりいるので、ぼくもさすがに見るに見かねて治療してあげることにした。
ちょっとナイフの先を近づけただけで、女の子は体をビクッと動かす。
「動かないようにって言ってるでしょ」と言っても、子どもだから全然言うことを聞いてくれない。
「動いたら切っちゃうぞ」と脅かしたら、ますます泣き出してしまって余計に動くものだから困った。
「早く家に帰ってお母さんに包帯してもらいなさい」と言っているところに、ちょうど先生が帰ってきた。
ぼくもちょうど困っていたところだったので、すぐに森川さんにその女の子を引き渡した。
森川さんはものすごく怖い顔をしていた。
「ほかに何人か客が来たか?」と聞くから、「お薬をもらいに来た人が来たよ」と答えた。
「どんな人だったか?」と聞くから、「こんな人だったよ」と教えてあげた。
「薬の瓶はどこにある?」と聞かれても、もう持って帰ってしまったんだからあるわけがない。
「それじゃあ、いったい何の薬をやったんだ?」と聞かれたので、あの綺麗な赤い奴だと答えた。
「それは大変だ! 間宮、お前、早く追いかけていってくれ!」
書生はまるで火事でも起きたかのように、ものすごい勢いで飛び出していった。
お花さんが遊びにやってきた。
うちにお泊まりして、二日泊まってから帰るんだそうだ。
もしぼくが大人しくしていられたら、一緒に連れて行ってくれるという約束だった。
お春さんは本当に意地悪な奴だ。
お花さんが、
「太郎さんはもう大人しくなったかしらね。それとも相変わらずいたずらばかりしているのかしら?」
と言ったのに対して、お春さんは、
「ええ、すっかり大人しくなりましたとも! 大人しすぎて、大人しすぎて困っちゃうくらいなんですから」
となんとも嫌味な節をつけて言い放ったのだ。
いったいどうして、みんなはそんなにぼくの事ばかり悪者扱いするのだろう。
誰だって失敗くらいするものだ。
コメント