初級翻訳・親鳥子鳥 第6話

佐々木 邦

人をだますペテンがお上手なのは、碁の腕前だけじゃなかったんですね」
「いやはや恐れ入ります。しかしあなたは、例の『国境問題』の頭の悩みに夢中になっていられただけに、あの時は私の髪の毛に目をつけたんですよ。
『うらやましいですな、あなたは』とおっしゃいましたよね」
「そうでしたかな。あまりよく覚えていませんね」
「それどころか、髪の毛の養生法(育毛法)まで私に尋ねてきたじゃありませんか。
私がなんと答えたのかは覚えていませんが、おそらくその場の勢いでテキトウなことを教え込んだんでしょうね。
まさか『これは白髪染めで染めているんですよ』とは言えませんからね。
なにしろ戦争の真っ最中で、明日をも知れない命の時です。
あなたが私の髪の毛の保存法を手帳にわざわざ書き留めていたのには、本当に感心しましたよ。まったく余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)でしたな」
「ははあ、あなたもあの時に白髪染めを欠かさなかったとは、聞いていて驚きですな。さすがに戦争中とはいえ、のんびりした時間もあったものです。人をだましていたことは別問題として、ですがね」
とお祖父さんは条件つきで感心した。
「この白髪頭のせいで、本意ではない嘘をついてあちこちの方々に申し訳ないことをしましたよ。
少佐の時代からポツポツと白髪が出始めてね。親からの遺伝です。
しかし、軍人というのはどうしても年寄りっぽく見られたくないものなんです。出世の妨げにもなると考えて、すぐに髪を染め始めたというわけです。
艦長の時代にはおそらくもう頭全体が真っ白だったはずですが、周りのみんなは私の髪を漆黒だと思い込んでいました。
大佐の歳になれば、それなりに白髪交じりなのが当然だから、もうそのままでもよかったのですが、今更『実は染めていました』と自分から白状する勇気もありませんでした。
妻も『いまさらそんな必要はないでしょう』と言うものですからね。
そこで相変わらず染め続けていましたら、ついに悪事が露見する日がやってきたんです」
「悪いことはできないものですねえ」
「日露戦争が終わって間もなく、チブスにかかってしまいましてね。横須賀の海軍病院に入院することになったのです」かなりの重症で、二か月ほど隔離室のベッドに寝ていたあとのこと、若い軍医がやってきて言いました。
「大佐殿のチブスは、症状にとても変わったところがありましたので、実はひそかにお心配り申し上げておりました」
「そうだったかもしれないな。
だいぶ苦しかったよ」
と私が答えると、軍医はこう続けました。
「なんだかとても不思議なのです。
高熱のせいでしょうか、髪の毛と髭がそのまますっかり針ネズミのように逆立った上に、頬髭だけは残らず色が抜けて真っ白になってしまっていましてね」
それを聞いて、私は初めて自分の状態に気がつきました。
髪や髭は染めていたので、その根本から白い新しい毛が生えてきたのです。
頬髭は普段から剃っていたので、染められておらず、自然なままの白い髭が伸びていたというわけです。
私は、「人間、嘘をつくのはよくないな」と思い直し、「いやあ、これは今までこっそり染めていたのさ」と、正直に本当のことを打ち明けました。
「そうだったのですね!
それを聞いて安心いたしました。
実は医学の教科書を調べ直してみましたが、髪の毛が針ネズミのようになるという症状は、どんな病気にも載っていなかったので、どうしたものかと困っていたところなのです」
と、この軍医も隠し事をしない正直な人でした。
「そこで、あなたの嘘がすっかりバレてしまったわけですな」
「いやいや、バレたのはその軍医さん一人だけですよ。
すぐに髪を切ってもらったので、そこからはもうすっきりと白髪頭になりました。
病気上がりで頭も真っ白なものだから、自分でも『すっかり年を取ったなあ』と感じたものです。
その頃からお見舞いのお客さんにも会えるようになったので、私は皆に『高熱のために、この通りすっかり白髪になってしまったんだよ』と説明しました。
すると皆は、『艦長殿はチブスが原因で、髪が残らず真っ白になってしまわれたんだな』と、すっかり信じ込んでくれたのです。
これが、私の人生で最後の嘘になったでしょうかねえ」
「あなたは本当に、どこまでいっても嘘で固めるお方ですな」
「災いを転じて福と為す。
兵法の極意というものは、まさにこういうところにあるのですよ。
どうですか、私のこの見事な作戦は?」
と、荒川さんは得意満面な顔をしました。
「まったく、頭が下がる思いで感心いたしました。
これほど図々しい男も、そうそういるものではありませんな」
「お互い、頭の毛の思い出話だけでこんなに時間を潰してしまいましたね。
ひとつ、碁を打ちますかな?」
「ぜひお願いしますよ。しかしあなたは、黒と白(碁石の黒白)をごまかす名人芸をお持ちですから、こちらは大いに警戒しなければなりませんな」
と冗談を言いながら、お祖父さんはカチリと碁石を握りました。
すぐに、パチリ、パチリと碁石を打つ乾いた音が響き渡ります。
母屋から離れた隠居部屋は、いつだって静かでのんびりしています。
お祖父さんとお祖母さんは、もう人生の大切な仕事をひと通りやり終えて、あとは静かにのんびり余生を楽しんでいるだけなのです。
ここに遊びに来てくれるお客さんたちも、荒川さんのようなおじいさん仲間がほとんどです。
僕の勉強部屋はお祖父さんの部屋のすぐ隣にあるので、今お話ししたような「ハゲ頭と白髪頭の面白おかしいやり取り」が、自然と耳に入ってくるのです。
のんびりしていて、実にいい環境です。
おかげで自分一人の勉強(自習)もよくはかどります。
母屋に行けばおやつをもらえるし、お祖母さんは時々おいしいお菓子をこっそり分けてくれます。
両方からちゃっかりおやつをもらっているので、妹の郁子は僕のことを「水陸両棲動物」と呼んでからかいます。
もっとも、郁子だって妹の敏子だって、よくこの離れにおやつをねだりにやって来ます。
千代子や浩二にいたっては、顔を合わせるなり、
「お祖母ちゃん、何かおいしいもの隠してるでしょう?」
「くれなかったら、もう遊びに来てあげないからいいもんね!」
と、堂々とゆすっていく始末です。
みんな揃って、まるで水陸両棲動物のようです。
お父さんの書斎からこっそり借りてきたハガキに、英語の通信講座の見本を申し込むための文字を書きながら、僕はまた『更衣(ころもがえ)の句』のフレーズを胸に思い浮かべました。
――「惣領の筍(たけのこ)伸び……」
そうか、僕は家柄としては長男(惣領)だなと考えました。昔から「惣領の的は甚六(長男はのんびり屋でちょっと頼りない)」なんて言うけれど、もしかすると僕はその「甚六」という言葉の期待を裏切らない、本物の頼りない長男になってしまうかもしれないぞ、そう思うとなんだか少し心細くなってきました。
実は、僕には今、大きな悩みがあるのです。
通信講座の見本を申し込んだりするのも、その不安を紛らわすための気休めにすぎません。
僕だけでなく、中学の四年生になった生徒たちは、みんな同じこの大きな苦労に直面しています。
それは、「高等学校の入学試験」という高い壁です。

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