初級翻訳・親鳥子鳥 第25話

佐々木 邦

お手数をおかけします」
「はあ?」
と僕は思わず聞き返したが、
「さあ、どうぞ」
とハガキをグイと突きつけられたので、やっぱり他人の手紙を代筆してほしいという依頼なのだと分かった。
あのネコヤナギの筆で文字を書くことを思えば、「お手数をおかけする」どころの騒ぎではない、本当に大変な苦労に値するかもしれない。
「喜んでお引き受けしますよ」
「子供のお前さんに頼むのは悪いと思って、さっきからずっと待っていたんですよ。本当に馬鹿な話さ。うちの亭主に逃げられたんですよ」
「ご主人ですか?」
「冗談言っちゃいけないよ。
私はただの雇われ人じゃないんだからね。これでもちゃんとした職業婦人だよ。うちのバカが勝手に逃げたのさ。亭主の野郎さ。
毎日お酒ばかり飲んでゴロゴロしているから、思い切って店から追い出してやったんだ。だけど、本当にそのまま逃げられちゃやっぱり困るからさ」
とお上さん(女性)は、急に言葉遣いが荒くなった。
「なんと書きましょうか?」
と僕はすっかり度肝を抜かれながら、恐る恐る尋ねた。
「『一刻も早く家に帰ってこい』って書いてやって下さい。
私も今度ばかりは少しは大目に見るつもりだし、昨日の夜には親方(親分やボスのような人)がうちを訪ねてきて『顔を立ててやれ』って話してくれたんだから、とにかくどう言い訳があっても帰ってこいって書いておくれよ」
とお上さんは大きな声で言った。
そこへ、郵便局での用事を済ませた文一君が近づいてきた。
「ちょっと代筆を頼まれたんだよ。
すぐ終わるから待っていてくれ」
と文一君に断ってから、僕は再び筆をとった。
「拝啓、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
昨晩、親方様がお見えになり、色々とご配慮いただくことになりましたので、何卒至急ご帰宅くださいますようお願い申し上げます。
先日の件は、れっきれっき私が悪かったと、今更ながら深く後悔しております」
と、僕が書き上げた文面をお上さんに読んで聞かせた。
「私が悪いことなんて少しもないんだけどねえ。
今更こんな後悔の言葉なんて書くもんかい!」
「それじゃあ、この部分は消しましょうか?」
「まあいいさ、そのままでいいよ。
これだけ謝るなら、あいつだってきっと帰ってくるさ」「まだ(郵便局の消印が)空いているようだから、もしこのハガキが届かないようなら警察に通報するぞって脅かしてやって下さい」
「ハガキが届かなければ見られませんから、脅し文句を書いても意味がありませんよ」
「なるほど、坊ちゃんは学問があって賢いね。
それじゃあ、その通り短めにしておきましょうよ」
「あなたのお名前は?」
「お由(よし)にしておくれ」
「ご主人は?」
「亭主のことかい。
新田長吉(にったちょうきち)さ」
「どこにいるんですか? 今いらっしゃるところは」
「平塚の踏切、辰(たつ)さんのところだよ」
「そんな場所じゃあ、手紙なんて届きませんよ」
「大丈夫さ。
踏切のそばにある家だから、私はちゃんと分かっているんだからね」
「そうですか。
辰さんも困るでしょうねえ。
苗字は分かりますか?」
「辰んべえって呼ばれているだけで、苗字なんて聞いたこともないね。
やっぱり大工だよ。
みんなからは大辰(だいたつ)って呼ばれているんだからさ」
「神奈川県平塚踏切、大辰様方、新田長吉様。
これなら大抵届くでしょう」
「ご足労さま。
実はもう一軒心当たりがありますから、もう一枚ハガキをお願いします」
お上さんはそう言って、さらにハガキをグイと突きつけてきた。
「片山君、君、代わりに一つ書いてやってくれよ。
この郵便局の筆は本当にひどいんだ。
書いていたら筆の首が抜けちゃったよ」
僕は文一君に助けを求めた。
「よしよし」
文一君は快く引き受けて、
「何と書きますか?」
と尋ねた。
「今のままでいいですよ。
だけど、さっきみたいに『後悔している』なんて勝手に書かないでちょうだいね。
そんなに何度もあやまり証文をとられちゃ、こっちの気が済まないよ」
とお上さんは僕をジロリと睨みつけた。
「どこですか? 行き先は」
文一君はハガキの宛名から書き始めた。
「御殿場(ごてんば)踏切」
「また踏切ですね」
「コウさんだよ」
「さあ、何のコウだろう?」
「幸二郎(こうじろう)だよ」
「苗字はないんですか?」
「あるには違いありませんけどねえ、私は知りませんよ」
「職業は?」
「大工さ」
「みんな大工ですね」
「亭主は大工で、私はヨイトマケ(道路工事などの作業員)さ」
お上さんは節をつけて面白そうに言った。
「大工職・幸二郎としましょう」
文一君は前半部分は僕が書いた通りに書き進め、
「……なお先日の件はなんと申し訳なく存じ候、お目にかかって万々お詫び申し上げるべく候」
と声に出して読み聞かせた。
「これじゃあ、こちらが全面的に謝る約束みたいじゃないか。
馬鹿にしてるのかい」
「他に書きようはありませんよ。
なんといってもご主人なんですから」
「主人だの旦那だのって言うけれどね、私はあそこの坊ちゃんたちのお母さんとは違うんだよ。
あんなダメな亭主野郎を私が一人で養ってやっているんだから、こちらから謝る筋合いなんて少しもないんだからね」
「それじゃあ、その部分は消しましょうか?」
「消しちゃったら失敬(しつれい)だろ? それくらいの常識は私だって知ってるよ。
まあいいさ。
坊ちゃんたちは男だから、どうせ男の味方をするんだろ。
仕方がないね」
「あなたの住所も書いておきましょうか?」
「そんなご心配には及びませんよ。
いくら酒飲みでバカでも、自分の家くらい忘れるもんかね。
どうもご足労さまでした。
これでキャラメルでも買って食べなさいよ」
お上さんは突然、文一君の手のひらに五十銭銀貨をグイと押しつけた。
「そんなもの要らないよ」
文一君は慌てて手を引いた。
「まあ、そんなこと言わないでさ。
これでも私からの本当の気持ちなんだから」
「片山君、もう行こう」
僕は文一君を促した。
「それじゃあ無理強いはしないけどね、坊ちゃんたち、ヨイトマケの仕事だってバカにしちゃいけないよ。
この風呂敷の中にはちゃんとしたコートが入っているんだからね。
これでも仕事が終われば、このコートを着て帝劇(帝国劇場)の三階席くらいには堂々と座るんだからね。
その辺の安月給取りになんて負けないんだから!」
職業婦人であるお上さんは、急に威勢よく気炎を吐き始めた。
僕たちはこれ以上関わると面倒なことになると察して、その場から逃げ出した。
「驚いたなあ」
「とんでもない大物に捕まっちまったね」
「後ろから追いかけて来てないかい?」
「大丈夫だよ」
そう言いながらも、僕は気になって後ろを振り返ってみた。

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