三越に限らず、お店で働く仕事なんてごめんだね」
「じゃあ、会社や銀行はどうなの?」
「それも嫌だなあ」
「まあ! それじゃあ一体、将来何になるつもりなのよ?」
「いろいろ考えてるけど、まだ決まってないよ」
「来年は高校を受験するんだから、そろそろ進路のはっきりした方針を決めておかないと困りますよ。
同級生のみんなは、たいてい将来は会社員になるんでしょ?」
「あいつらはみんなバカさ。
お金が欲しいだけなんだから」
「源太郎、そんな風に考え違いをしちゃいけませんよ。
お金だってとっても大切なものなんだからね」
「それは分かってるよ」
「いいえ、分かってないでしょ? そりゃあ、お金がすべてっていう世の中じゃないけれど、お金をたくさん稼ぐ人も、学問で新しい発見をする人も、どちらも同じくらいすごい人なのよ。
同じように、国の役に立っているんだから。
お前は学者や役人だけが偉いと思っているんでしょ?」
「そんなことないよ。
実業家の中だってすごい人はいるさ」
「いるとも!
本郷の伯父さんは、年に五万円も稼いでいるのよ。
大きな会社の重役になると、十五万円から二十万円も稼ぐんだからね。
大臣の年俸なんて八千円よ。
大臣より重役のほうが偉いとは言わないけれど、偉くないとも言い切れないわ。
仕事なんて何をしてもいいのよ。
職業に上も下もないんだから」
「あるある、すごくあるよ!」
と、このタイミングでお父さんがひょっこり部屋に入ってきた。
お母さんはすっかり拍子抜けしてしまい、
「あなたは本当に変な人ねえ」
と、うらめしそうな顔をした。
「子供に変な知恵を吹き込まないでちょうだいよ」
「おほほほ。
あなたこそ、甥っ子(芳夫さん)に悪知恵をつけないでくださいまし」
「参りました」
「それからお願いですから、私が子供に大事な話を教えているときくらい、冗談を言うのは控えてちょうだい。
母親の威厳がボロボロになってしまうでしょ」
「それは本当に悪かった。
しかし源太郎、職業には上等なものと下等なものがあるんだ。
お前は上等なほうの仕事を選ぶんだぞ」
とお父さんがどこまでもふざけ続けるので、
「それはぜひ聞いてみたいわね。
どうして職業に上と下があるのかしら、詳しく説明してもらいましょうか」
とお母さんも負けじと開き直った。
「つまりね、仕事の中身に上等も下等もあるんだよ。
例えば、どうすればこの病気を治せるだろうかと、患者の命を救うために真剣に悩むお医者さんは、どうすればあの人の財布をこっそりすり盗れるだろうかとコソコソ悪巧みをしているスリよりも、絶対に上等だろう?」
「言葉を返すようですが、スリなんてものはそもそも職業と言えるのかしら?」
「待ってくれ。
それなら、どうすれば商品を安く仕入れて高く売りつけてやろうかと考えている商人は、どうすれば国民の考えをより良い方向へ導こうかと真剣に悩んでいる聖人よりも、下等なのは間違いないだろう」
「お父さん、ちょっと言葉のアヤかもしれないけど、聖人だってみんながやっているような『職業』とは言えないんじゃない?」
と、僕もすかさずツッコミを入れてあげた。
「すぐに分かりやすい結果が欲しくて極端な例えを出したから、あちこち揚げ足を取られてしまうけれど、まあ大体はそういうことなのさ」
とお父さんは早くもちょっと疲れ気味だった。
「どういうことなのよ、まったく」
とお母さんはさらに追求の手を緩めない。
「要するに、世の中のみんなのために尽くす仕事は尊くて、自分の利益ばかりを追求する仕事は価値が低いということさ」
「あなた、商人だってちゃんと言いつけを守ってみんなのために働いてるわよ。
何もかも自分たちで製造元へ直接買いに行ったりしたら、あなただって毎日原稿を書いている暇なんてなくなるじゃないの!」
「だからこそ、毎日高いお金を出して買わされているのさ。
会社の最近の調査によると、売られている品物にはすべて約八割もの手数料(マージン)が上乗せされているそうだよ」
「お医者さんだって高いお金を払うじゃないの。
『薬九層倍(くすりくそうばい)』って言って、薬代なんてボッタクリよ!」
「まったく君は口が減らないねえ。
まあ、お茶でも一杯入れてくれよ」
とお父さんは見事に降参したのだった。
小説家志望
「蛙の子は蛙になる」というから、僕は新聞記者の父親を持つ身として、将来は自分も新聞記者になるものだと思い込んでいた。
けれど、どうせ文章を書くことで生きていくなら、もっととことん突き詰めた道を行こうと思い立ち、「小説家」になってやろうと決心したのだ。
お父さんの理論によれば、職業には貴いものと賤しいものの上下の区別があるという。
お金を稼ぐこと自体を直接の目的にしている商売は賤しく、報酬を二の次にするような職業は貴いのだそうだ。
「例えば、お医者さんが患者を診察しているときは、『病気の原因を突き止めて、一番ぴったりの治療をしてあげたい』という一途な思いしかないんだ。
この肋膜炎の患者からいくらお礼がもらえるかなんてことは、みじんも考えていない。
画家が絵を描いているときも全く同じことさ。
絵の報酬(潤筆料)は高ければ高いほうがそりゃ嬉しいだろうけれど、描いている最中は『とにかく素晴らしい芸術品に仕上げたい』ということ以外、頭には一切ないはずだ。
このように、報酬のことをすっかり忘れて没頭する仕事は、すべて貴いものなんだよ」
とお父さんは言っていた。
「源太郎や、お前の学校の先生が教室で授業をしているときはどうだろう?」
「先生たちはみんな一生懸命だよ。
少しでもよそ見をしようものならすぐ大声で怒鳴られるから、油断も隙もないんだから」
「そうだろうとも。
それくらい厳しくやらなければ、お前たちのスイカみたいに硬い頭には学問なんて染み込まないからね。
先生たちの苦労がよく分かるというものさ」この一時間の授業のために、自分たちの給料が何十分の一にあたって何円になるだなんて、そんなセコい計算は微塵もしていない。
金儲けばかり考えている商売人とはわけが違うんだ。
自分の心に後ろめたいところがないからこそ、生徒をすぐに怒鳴りつける資格があるというものさ」
「道理で、僕のほうの漢文の先生には『光風霽月居士(こうふうせいげつきょし/心が晴れやかで明るい人のような立派な人、という皮肉交じりのあだ名)』なんてあだ名がついているわけですね。
生徒をみんな激しく叱り飛ばしておいて、『まあこう見えても、わが輩の心の中は爽やかな光風霽月そのものなのだよ』と仰るんですから」
というような問答があったあとで、
「ところで源太郎や、お前は一体将来何になるつもりだ? まさか実業家じゃあるまいね?」
とお父さんは、突然僕自身の将来へと話題を向けた。
「まだ決めていません」
と僕は、本当は「小説家」になりたいとは、なんだか恥ずかしくてすぐには答えにくかった。
「そんなに焦って決める必要もないけれど、夏休み中にゆっくり考えてごらん。
何でも、自分の持って生まれた才能(天分)を一番よく発揮できると思うものを選ぶんだよ。
俺はほかの親たちとは違って、よく分かっていないのに口出しするような真似はしないつもりだ。
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