おそらく兄の方では、自分の威力に恐れて孔子が逃げ出した、とでも思っているだろうが、孔子は元来兄を人間扱いにはしていないのだ。
人間扱いにされない兄! 思っただけでもぞっとする。
それに次兄の子(しこう)と云い、三兄の子車(ししゃ)と云い、どうして自分の兄弟はこう揃いも揃って悪人ばかりいるのだろう。
宋の国がこんなに不安な状態になっているのも、全く三人がその兵力を恃んで非望をたくらんでいるからのことだ。
それにしても、孔子は自分のことをどう思っていられるだろう。
自分は真面目に孔子の教えを受けたいばかりに、こうして一行に加わってはいるものの、みんなの視線が、何かの拍子に自分に集るところを見ると、自分もやはり怪しまれているのではないだろうか。
「血のつながりというものは争えないものだ。」と、どうもみんなの眼が、そう云っているように思えてならない。
孔子だけは、まさかとは思うが、それにしても、自分と視線が会うと、すぐ眼をそらしてしまわれるのは、どうしたわけだろう。
ああ嫌だ。
考えると何もかも嫌だ。
いっそこのまま逃げ出して、山奥にでもはいってしまおうか、だが、そうなると、ますます疑われるだけだ。
とうとう兄たちのところに帰-って行った、などと思われるくらいなら、むしろみんなに足蹴にされる方がましだ。
司馬牛は、そんなことを考えているうちに、一行から一町以上もおくれてしまった。
誰も彼の方をふり返らない。
思いなしか、それがわざとのように思えて、彼はますます淋しい気持になる。
急いで追いつこうという気がしない。
日暮に近い風が急にひえびえと襟をかすめる。
――秋である。
路はゆるやかな上り坂になっていた。
一行は、もう峠を越えかかっている。
つぎつぎにみんなの姿がかくれて行く。
その最後の一人がかくれてしまうと、彼の眼がしらが急に熱くなって、思わず涙が頬をつたった。
彼は声をあげて泣きたくさえなった。
「おうい、どうしたあ――」
子夏の声である。
子夏が再び峠に引きかえして来て、司馬牛を呼んだのである。
司馬牛は急いで涙を拭いた。
そしてそ知らぬ顔をして足を早めた。
「足が痛むんじゃないかね。」
「いいや、大丈夫。」
「つい話に夢中になって、君がおくれていることに、ちっとも気がつかないでいた。
先生に注意されて、みんなはじめて知んだんだ。」子夏の口ぶりには、少しもいじわるなところや、責めるような響きはありませんでした。
司馬牛はそれがとてもうれしかったのです。
しかも、一番最初に自分がおくれていることに気づいて、みんなに注意してくれたのが孔子だったと知ったことも、彼の心を温かくしました。
「なんだか、あまり元気がないみたいだね。」
子夏は彼と並んで歩きながら言いました。
一行はいったん立ち止まって、二人が峠にあらわれるのを待っていました。そして、二人がそろって坂を下り始めたのを見ると、再び歩き出したのです。
「そう見えるかもしれないね。僕は、本当はすごく寂しいんだ。」
司馬牛はしばらく間をおいてそう答えましたが、その胸の中は、まただんだんと重くなっていくのでした。
「君の気持ちはよくわかるよ。でも、君自身には何の罪もないじゃないか。みんなはむしろ、君のことをかわいそうに思っているんだよ。」
「…………」
しばらくの間、沈黙が続きました。
司馬牛は二、三度大きなため息をついてから言いました。
「僕には、もう本当の兄弟がいないんだ。みんなは優しい兄弟を持っているのに、僕にはそれがいないんだよ。」
今度は子夏が大きいため息をつきました。しかし彼はすぐにそれを明るい笑い声にまぎらわせながら言いました。
「そんなめそめそした気持ちはやめにしたまえ。先生がいつもおっしゃっている通り、生きる死ぬことや、お金持ちになるかならないかが天のめぐり合わせなら、兄弟の縁がないことも、やっぱり天のめぐり合わせなのさ。
おたがいが、心に思いやりの敬う気持ちを持ち、その心でみんなとのつきあいを大切にしようと努力しさえすれば、世界のどこへ行ったって、本当の兄弟は見つかるものさ。
何も、同じお母さんから生まれた血のつながった兄弟だけが兄弟とは限るまい。
現に、すぐ目の前を、君の心の兄弟である仲間たちが何人も歩いているじゃないか。」
「本当に、みんなは僕のことを兄弟だと思ってくれるだろうか……。」
「今さら何を言っているんだ。君はいつも、自分で自分のことをダメだと決めつけてばかりいる。もっと自分に自信を持ちたまえよ。」
司馬牛の足どりは、さっきよりも少し軽くなりました。
「さあ、みんなといっしょに歩こう!」
子夏は彼をせき立てるようにして、大股で歩き出しました。
二人が一行に追いついたのは、坂を下りきった橋のたもとのところでした。
みんなはそこでしばらく足を休めていました。
子游(しゆう)と子夏はまわりの景色を眺めながら詩を口ずさんでいました。
宰我(さいが)と子貢(しこう)は相変わらず立ったままで熱心に議論を続けていました。
子路(しろ)と冉有(ぜんゆう)は今夜泊まる宿の相談をしていました。
顔淵(がんえん)、閔子騫(びんしけん)、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゅうきゅう)の四人は並んで腰を下ろしていましたが、それぞれが何か深い考えにふけっているようでした。
孔子は少し離れたところで一人ぽつんと腰を下ろし、じっと川の水面を見つめていました。
司馬牛はしばらくみんなの様子を見まわしていましたが、思いきったように決心すると、孔子の前へと歩いて行きました。
孔子は彼に気づくと、静かに顔を上げて優しく微笑みました。
「先生、ご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。」
「いや、体の具合が悪いというわけでもなさそうじゃな。」
「いいえ、別に体の具合が悪いわけではありません……。ちょっと考え事をしていたものですから。」
「考え事? というと?」
孔子の顔が少し曇りました。
司馬牛は、自分の心の中の悩みを包み隠さず打ち明けるつもりでした。しかし、孔子はすでに自分の胸の内を見すかしていて、まるで叱られるような気がしてしまい、とっさに別の質問をしてしまったのです。
それは、仲間たちの間でいつも話題になる「君子(くんし=立派な人)」とはどういう意味なのか、という質問でした。
孔はその質問を受けると、ちょっと目を閉じました。
そして、ゆっくりと言葉を選んで答えました。
「君子は、くよくよと心配しない。また、おびえたり恐れたりもしないものだ。」
司馬牛は、「君子」の説明としては、何だか拍子抜けするほどあっさりしているなと感じました。
しかし同時に、そこには何かとても深い意味が隠されているようにも思えたのです。
彼はもう一度尋ねました。
「心配せず、恐れないという、ただそれだけのことで、君子だと言えるのでしょうか?」
「心配せず、恐れないということは、誰にでも簡単にできることではないのじゃ。それは、自分の行いを自分で振り返ってみて、うしろめたいことが何もない人にだけにできることなのだよ。」
司馬牛は、まずは孔子の言いたいことを頭で理解しました。
しかし、まだ彼はそれを自分の抱えている問題とは結びつけて考えていませんでした。
初級翻訳・論語物語 第34話
下村 湖人
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