ただ、ずっと向こうの方からボロボロに破れた服を着た、こじきのような三十歳くらいの男がフラフラと歩いてくるのが見えるばかりです。
「オイ、この自転車、きみが乗っていたのか?」
運転手はそのこじきが近づくのをまって、どなりつけました。
「おれじゃねえよ」
こじきはけげんな顔をして答えました。
「へんだな。きみのほかに誰もいないじゃないか。きみはこの自転車が走っているのを見なかったか」
「見たよ。あっちから見ていた」
「じゃあ、自転車に乗っていたやつはどこへ行ったんだ。向こうへ逃げたのか」
「いんや、逃げないよ。はじめからいなかったんだ」
こじきは変なことを言いました。
「いなかったって? それじゃどうして自転車が走れるんだ」
「誰も人はのっていないけれど、自転車はひとりで走っていた。へんなこともあるもんだと、おれも不思議に思って見ていたんだ」
それを聞くと、運転手はゾーッとしました。
そして思わず後ろを振り返ると、そこに自動車から降りてきた明智探偵が立っていました。
ふたりは目を見合わせてうなずきあいました。
この運転手はもちろん透明怪人のことを知っていたのです。
また、明智が警視庁へ行くのもその事件に関係があることを察していました。
「それじゃ、いまの自転車には透明怪人が乗っていたんですね。そして、この横町で飛びおりて、わざと先生の自動車にぶつかり合わせたのですね」
運転手はおびえた顔で明智を見つめました。
名探偵はそれに対して軽くうなずいたまま何も言いません。
内心ではさっき電話をかけてきたばかりの怪老人が、もうこんなイタズラを始めた素早さに驚いていたのですが、そういう顔色は見せませんでした。
透明怪人が乗っていたのだとすると、相手は目に見えないやつですからおっかけることもとらえることもできません。
運転手はしかたがないのでこじきに手伝わせて壊れた自転車を道わきによせ、自動車の前部の機械をしらべていましたが、「チェッ」と舌うちをしながら、
「かわりの車を呼んでまいりましょう。急にはなおりそうもありません」
と、あきらめたように言うのでした。
ちょうどそのとき、向こうから一台の自動車が徐行してきました。
どこかへ客を送った帰りらしく、「空車」という札が出ています。
「先生、うまい具合に空車がきましたよ。あれに頼みましょう」
運転手がその自動車を呼びとめてくれたので、明智はなんの気も使わずにそれに乗りこんでしまいました。
さすがの名探偵も、まさかあんなことが起ころうとは夢にも思わなかったのです。
その自動車はタクシーにしては少し立派すぎるようでした。
外から見たのではそうでもありませんが、中の腰かけなどは新しいきれで貼ってあって、その形もどことなくふつうの自動車とちがっていました。
行き先をつげると、その自動車は恐ろしい速力で走りだしました。いくつか町かどを曲がっていくうちに、あたりの様子がだんだん寂しくなり、いつの間にか、広い原っぱにさしかかっていました。
「おい運転手君、道がちがやしないかい。
警視庁へ行くのにこんな原っぱは通らないはずだが」
明智が声をかけますと、運転手は、向こうをむいたまま、奇妙な笑い声を立てました。
「エヘヘヘ……、今ごろ、気づいたのかね。
名探偵にしちゃあ、すこし頭がにぶいですね」
そして、自動車が止まったかと思うと、運転手はグーッと後ろを振りむき、黒いピストルの銃口が、明智の胸に向けられました。
しかし、それよりも、もっと恐ろしいものが、こちらを、じっとにらみつけていたのです。
さすがの明智も、それをひと目見たときには、思わずゾッとしないではいられませんでした。
運転手の顔は、ろう人形だったのです。
二つの目が黒いうつろになって、すきとおるように青白い、西洋人の顔をしたろう仮面だったのです。
タクシーと見せかけた、この自動車は、じつは怪老人の車でした。
明智の自動車に自転車をぶつからせて、動けなくし、困っているところへ、空のタクシーを通りかからせ、自然に、明智がこの車に乗るように、しむけたのです。
名探偵はまんまと、怪老人の計略にかかったのです。
しかし、明智は別にうろたえる様子もなく、じっとクッションにもたれて、ろう仮面を見つめていました。
ちょっとでも、すきがあれば、逆に、相手をとらえて押さえようという考えなのでしょう。
ところが、そのとき、またしても、不思議なことが起こりました。
明智がもたれているクッションの背中が、グーッと前の方へ動きだしたのです。
びっくりして、振りむくと、クッションが動いてできたすきまから、びっくり箱の人形のように、ひとりの人間の顔がヒョイとあらわれたではありませんか。
しかも、その顔が、やっぱり、あの不気味なろう仮面だったのです。
ろう仮面といっしょに、一本の手がヌーッと出て、それがピストルをにぎっていました。
そして、そのピストルの先が明智の背中に、おしつけられたのです。
敵はふたりでした。
しかも、ふたりともろう仮面の透明怪人です。
ひとりは前の運転席から、ひとりはクッションの後ろから、それぞれ、ピストルにつきつけているのです。
このふたりのろう仮面は、たぶん怪老人がつくった透明人間第一号と第二号なのでしょう。
さすがの名探偵も、もうどうすることもできません。
叫んでみても、あたりに人かげもない、広い原っぱです。
手むかいすれば、前とうしろから、ピストルのたまが、飛びだします。
こうなっては、ただじっとして、敵のするままに、まかせるほかはありません。
「エヘヘヘヘ……、探偵さん、おれたちの首領が、親切に、電話で注意してやったのに、言うことをきかなかった天罰だよ。
首領の知恵には、さすがの探偵さんも、かなわなかったねえ。
かわいそうに、もう手も足も出ないねえ。
エヘヘヘヘヘ……」
運転席のろう仮面が、またしても、いやな笑い声をたてました。
しかし、笑っているのは声だけで、ろうでできた顔は、キョトンとした表情で、すこしも笑わないのです。
それが、いっそう不気味な感じでした。
後ろのやつは、明智の背中に、ピストルの先をおしつけたまま、じっとしていましたが、運転手に化けたやつは、やがて、運転席とのさかいを、またぎこえて、こちらへはいってきました。
そして、青白いろう仮面が、明智の目の前に、グーッと近づいてきたのです。
「ちっとばかり、窮屈なめにあわせるよ。
なあに、すこしのあいだの、しんぼうだ」
そう言ったかと思うと、明智探偵の目の前が、まっくらになってしまいました。
黒布で目かくしをされたのです。
それから、細引きのようなものが、からだにグルグルまきつけられるのを感じました。
そして、その細引きが、だんだんつよくしまってきて、手も足も、まったく動かせないようになりました。
ああ、名探偵明智小五郎は、ついに、敵のとりことなってしまったのです。
透明怪人第五号
目かくしをされてしまったので、それからあとのことは、ただ、からだで感じるだけでしたが、自動車は、ふたたび動きだし、二十分も走って、どこともしれず、とまりました。
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