初級翻訳・青い焔 第1話

北条 民雄

第一章

 深い霧の夜が、毎晩のように続いていました。
 黒々と続く雑木林の繁みからあふれ出すように、霧は月光を浴びて乳白色に光りながら、音もなく菜園へと広がっていきました。
 梨畑がぼんやりとした白い煙の中に消えていくと、連なった葡萄棚の輪郭も少しずつ溶け出していき、あたり一面は、ただ真っ白な色で塗りつぶされてしまったかのようでした。
 はるか向こうの、木立の中にちらちらと見え隠れする病舎や病棟の明かりも、ぼやけて光がにじみ、大地はまるで真っ白な雲の底に沈んでいるようでした。
 さっきから深い考え事に沈みながら、うつむいてのろのろと歩いていた野村英吉は、霧の湿気を吸い込んだ着物のすそに冷たく重みを感じ、足元から這い上がってくる冷気を素足に覚えると、なんとなく立ち止まって空を見上げました。
 月はぼんやりとかげり、霧は幾万もの小さな粒となって重なり合いながら、かなりの速さでゆらゆらと流れています。
 彼はしばらくの間、棒のように突っ立ったまま霧の粒を眺めていました。
 しかし、ふと「俺はどうしてこんなところに突っ立っているんだろう」という疑問が頭をかすめると、またイライラとした気持ちが心の中に湧いてきて、急いで歩き出しました。
 けれど、二、三歩も歩かないうちにまたぴたりと足を止め、「俺はどうして急いで歩くんだ、急ぐ必要なんて少しもないのに」と、いつものようにぶつぶつと独り言をこぼしました。
 ですが、立ち止まっていても結局どうしようもないと思い直し、彼はやはりこれまでと同じように、のろのろと歩くよりほかにないと気づくのでした。
 ああ、嫌だな。こんなくだらない散歩がもう何晩続いていることだろう――。
 風もなく、霧は少しずつ濃さを増し、野村の周りの七、八メートル先さえ見えないほど真っ白でした。
 時折、その煙った中から若い男女の声が聞こえてきて、やがて野村の目の前に黒い影となって現れると、「今晩は」と声をかけて再び乳白色の闇の中へと消えていくのでした。
 果樹園の入り口まで来たとき、野村はふと、そこの番小屋に住んでいる老人のことを思い出し、「それならひとつ、葡萄でもご馳走になろうか」とその方へ足を向けましたが、あいにく老人は留守でした。
 彼は扉の閉まった小屋の前でしばらくぼんやりと立っていましたが、仕方なくまたぶらぶらと歩き始めました。
 「まるで極楽から追い出された亡者みたいだぞ、俺は」
 彼がそうつぶやくと、なんとなく口元にニヤニヤとした笑みが浮かびました。
 その笑いを意識すると、今度は「ハッハッハッ」と短く大きな声で笑ってみて、「よし、これから秋津大助のところへ出かけてみよう」と、少し足を早めました。
 「この野郎、本当に気色の悪い奴だ」
 野村が苦笑いをするたびにそう言う秋津の言葉を、今の自分の笑いからふと思い出したのでした。
 秋津大助は動物小屋の薄暗い中で、猿を相手に暮らしています。それなら葡萄棚の下をくぐって真っ直ぐ行くのが一番の近道だと気づきました。
 しかし、棚のすぐ近くまで来たとき、野村はまた若い男女の声を聞きました。
 どうやら棚の中から出てくるようです。
 「ははあ、さては紋吉だな」と声で判断すると、彼は引き返そうかと一瞬思いましたが、「なあに、構うもんか」と、そこに立って相手が出てくるのを待ちました。
 相手は棚の外に立っている野村に気づいたようで、話し声はぴたりとやみ、ただ足音だけがカサカサと土を踏んで近づいてきました。
 「やあ、野村さんですか。今晩は」
 紋吉が唐突にそう言うと、ペコンと頭を下げるのが月明かりで見えました。
 「ああ、今晩は」
 野村も返事をしましたが、その時、紋吉の背後で六、七メートルほど離れて立っていた女が、こっそりと霧の中へ隠れるのが見え、ゆらりと動いた着物のすそが妙に鮮やかに目に飛び込んできました。
 もちろん、水江に違いありません。
 紋吉は気づかないふりをして、小心そうにもじもじとしていましたが、間延びした調子で「散歩ですか?」と言い、馬のように足先でコツコツと地面をほじくりました。
 「うむ。紋ちゃんも、これでなかなか隅に置けないな」
 野村がちょっとからかい始めると、「あかん、あかん、野村さん、ひやかしちゃ」
 紋吉は大阪弁を交えて話す癖があります。
 そして「えへへへ」と嬉しそうに笑っていましたが、改めて水江の顔を眺めたくなったのか、くるりと後ろを振り返りました。しかし、すぐに「ありゃ?」と叫んで腰をかがめ、注意深く霧の奥をのぞき込みました。
 「どこへ行きよった!」
 仰天したような声を出しながら、紋吉は目を凝らしていましたが、信じられないという風に首をかしげました。
 「ははは、紋ちゃん、心配するなよ。俺がいるから恥ずかしがったのさ。なにしろ良いところを見せようとしていたからな、どうも」紋吉は、「なるほど、そういうことか」と言いたげに野村の顔を眺め、すぐに嬉しそうに「ふふふ」と口の中で笑いました。しかし、自分と一緒になって笑おうともしない野村の憂鬱そうな姿を見て、また不安になったのか、突然、ペコリと頭を下げると、慌てて歩き出しました。その拍子に、低い葡萄棚に「ごつん!」と頭をぶつけて、「痛っ!」と叫ぶと、駆け出すようにして棚の奥深くへと消えていきました。

やがて、ドタドタと地面を踏みしめていく紋吉の足音が聞こえなくなると、野村は不快そうに額にシワを寄せ、黙々と棚の中へと潜り込みました。
こっそりと隠れていた水江の、ゆらりと揺れる着物のすそが目に入ると、彼は「ちえっ」と舌打ちをし、紋吉に対して自分が口にした言葉の一つ一つに、言いようのない嫌悪感を覚えるのでした。

「なんてこった」
彼は秋津の口癖を真似て呟くと、頭に浮かび上がってくる水江との醜悪な関係を、懸命に打ち消そうとしました。
そして、例のようにニヤニヤと笑ってみせると、せめて景色でも眺めてみようと思い、棚の中ほどで腰をかがめて辺りを見回すのでした。
もう秋津に会いに行きたいという気持ちも消え失せてしまい、彼はしゃがみ込んだまま、いつまでもこうしてじっと動かずにいられたら、どんなに平和だろうかと思わずにはいられませんでした。

棚の中は暗く、真っ黒な土の上には、葡萄の葉の間からこぼれ落ちてくる月光が、まばらに散らばっています。
棚の外は真っ白な霧に包まれて白々と明るいのですが、木も草もすべて溶けてしまったかのように、何も見えません。
そこに見えるものといえば、棚を支えて林立する丸太の柱と、不気味にくねって立ち上がっている葡萄の幹、そしてその間のところどころに高く積まれた藁などで、すべてが深い静寂の中に沈んでいるのでした。

「どうしたの? 何か考え込んでいるの?」
突然、耳元で水江のささやくような声が聞こえました。
そして彼女は晴れやかな笑い声を立てると、
「ねえ、歩かない?」
となまめかしい調子で言い、腰をかがめて野村の横顔をのぞき込むのでした。

「うむ」
野村は重苦しい返事をすると、仕方なく立ち上がりました。自分の顔と向き合い、わずか数十センチの距離に迫っている女の顔を見つめ、「帰って寝てきなさい」と、まるで兄貴のような口調で言ってみました。

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