初級翻訳・神州天馬侠 第98話

吉川 英治

ずいぶん久しく会わなかったのう」

「では、やっぱりお師匠さまでございましたか。ああ、お姿を見たいにも、竹童めは、何の罰でか、このような盲目となってしまいました」

「竹童、目がつぶれたことを、おまえはそんなに不自由だと思うか」

「はい、伊那丸さまのために働くことはおろか、だいじな鷲をとり返すことさえできませぬ」

「そして、それを悲しいと思うか」

「お師匠さま。これがどうして悲しまずにおられましょう」

「まだまだおまえは修行が足りない。なぜ盲目となったなら、心眼をひらく工夫をせぬ。ものは目ばかりで見るものではない。心の目をひらけば宇宙の果てまで見えてくるよ。……しかし、おまえはまだ若いのう、この理屈は少しむずかしかろう」

「はい、私にはよくわかりませぬ」

「よしよし、おまえの目は、もともと生まれつきの病ではない。吹針の蚕婆(こば)、あれの毒針に目をふかれたためじゃ。わしが一つ治してやろう」

「えっ……お、お師匠さまっ。では、この目を見えるようにしてくださいますか」

「うむ! 竹童。まずその太刀を鞘におさめて、わしの腕にしっかりとつかまっているがよい」

いわれるまま竹童は、地べたをさぐって般若丸をひろい、果心居士の右腕にからみつくと、居士は藁でも持つようにフワリと竹童のからだを小脇にかかえ、やがて、八神殿の裏宮から境内をぬけ、森々たる木立のおくへ、疾風のように駈けこんでいった。

竹童はおよぐように引っかかえられていた。さっさつと風があたる。バラバラと雨のごとき夜露がぶつかる。居士は愛弟子竹童をかかえて、いったいどこへつれていく気か? やがて森林をぬけて、紫野のはて、舟岡山の道を一気にのぼりだした。

ゴウ――ッという水のおと。それはほどなく近づいた雷神の滝のひびきである。暗々たる梢から梢を、バラバラッと飛びかうものは、夜の夢をやぶられたムササビか怪鳥であろう。鞍馬の道士・果心居士、竹童をひっかかえて岩頭にたち、轟々たる雷神の滝を眼下にみた。

「竹童!」

居士の、こう呼ぶ声をきいたが、かれは小脇に引っかかえられていて、こたえる声さえでなかったのである。

と――居士は両手をさし伸ばして、あわやという間に竹童のからだを、目よりも高くさし上げた。そして、もいちど呼んだのである。

「竹童!」

「はい……」

かれは、虚空におよぎながら、かすかに、しかし、はっきりと答えた。

「おまえはその目が開きたいか」

「ハイ、開きとうございます」

「なんのために」

「…………」

「なんのために?」

「りっぱな人間となりますために」

「うむ」

「そして正義の武士となりますために」

「うむ。ではそのためには、どんな艱難辛苦もいとうまいな」

「いといませぬ。たとえこの身がどうなりますとも」

敢然たる声でいった。

「おお、それでこそ師たるわしもはりあいがある。雷神の滝の宙天で誓いをたてた言葉を終身の守りとするなら、おまえはおそらく天下の何人にも、おくれをとらぬ武士となるであろう。おお、苦しめ苦しめ! 苦しまぬ者はみがかれぬ。八神殿の八柱の神々、あわれ竹童を、このうえとも苦しめたまえっ」

祈るがごとく、吠えるがごとく、雷神の滝の岩頭に、果心居士の声がこうひびいた時である。

「あッ――」

と、いうと鞍馬の竹童。ドウッ――と鳴る滝壺の音を、さかしまに聞いて、居士の手から闇のそこへまっさかさまに投げこまれた。

白鳥の予言

一

枯れ木をあつめて焚いた燃えのこりの火が、パチパチとわずかな火の粉をちらし、一すじのうすじろい煙は、森の梢をぬけて、まっすぐに立ちのぼっていた。その火のまわりを取りまいて、夜の明けるのを待ちさびしげに語りあっている三人の武士。

あかき光を正面にうけて、薪束のうえに腰をかけている影こそ、まさしく伊那丸であり、その両側にそっているのは、木隠龍太郎、加賀見忍剣、いつも、すきなき身がまえである。

「若君。待つというものは久しいもの、まだなかなか夜が明けそうもござりませぬな」

「そちたちは、火にぬくもったところで、少しここでやすんではどうじゃ」

「いや、なかなか寝られるどころではござりませぬ」

こういったのは忍剣である。

「夜明けと同時に、天ヶ丘をくだる呂宋兵衛(ろそんべえ)の列を待ちうけ、勝頼公のお乗物を、首尾よくとるかいなかのさかい。」「――それを思っても眠られぬし、また、日陰に敵のいましめを受けておいでになる、大殿のご心中を思うても、なかなか安穏と寝ている場合ではございませぬ」

「おっしゃる通りじゃ」

木隠も大きくうなずいて、こう言った。

「たくみに大殿をわなにおとし入れ、桑名にいる秀吉の陣屋まで、送りとどけようとする呂宋兵衛、さだめし明日はぎょうさんな人数をもってくりだすことでしょう。ここぞ、若君にとって、武運のわかれめ、忍剣どのもおぬかりあるなよ」

「いうまでもない。たとえどれほどの敵だろうとも、この降魔の禅杖は、決してにぶりはしませぬ」

「いつもながらふたりの者のたのもしさ、わしはよい味方を持ってしあわせに思う」

と、伊那丸は心から、よろこばしげに言った。

「その意気をもってするからには、たとえ敵陣のかこみのうちに、無念の鬼となろうとも、わしは心残りではない」

「心よわいことをおっしゃってはいけませぬ。呂宋兵衛こそ、多少の蛮流の幻術を心得ておりますが、他の有象無象は、みな高の知れた野武士や浮浪人の寄りあつまり、きっとけちらしてごらんに入れましょうから、お心やすく思しめせ」

「そうとも、死をいとうのではないが、こんど、木隠とこの忍剣がお供をしてきて、首尾よく大殿のご安否をつきとめねば、小太郎山にのこっている、小幡民部や咲耶子や小文治などにも笑われ草……」

と、つとめて、伊那丸の勇気を奮い立たせるため、ふたりが快活に話していると、向こうの林をへだてた闇の方から、ドボーン! とすさまじい水音が響いた。

「や、あれは……?」

「雷神の滝のあたり、まさしくその滝壺になにかあやしい水音がしたようす」

「それ、あらためてみよう」

と言うと、木隠龍太郎は、手ばやく、用意していた松明を焚火に突っこんで火を移し、それをふりかざしてまっさきに走りだした。

木々のあいだを縫っていく、松明のあかい光を追って、伊那丸も忍剣も滝壺のほとりへ向かって歩をはやめる。

たちまち目の前にあらわれた銀河のごとき滝は、ドウッ――と噴霧を白くたてて、宙天の闇から滝壺へそそいでいる。

「龍太郎、龍太郎!」

伊那丸は雑木をわけて、まっ暗な淵をのぞきながら指さした。

「そこへ松明をふってみい」

「はッ」

「あぶない! 岩苔にすべるなよ」

「お案じなさいますな」

と龍太郎は、松明を左手にもって、ヒラリ、ヒラリ、と岩から岩へとびうつっていった。

二

漆の渦まくを見るようなものすごい闇の滝壺である。そこに、百千の水龍が、泡をかみ霧をのぞんで躍っている。

「おお、人がおぼれているぞ」

さけんだのは、加賀見忍剣。

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