「なに、人がおぼれていると?」
「やッ――また沈んでいった、木隠、木隠、早くこっちへ松明をかざしてみてくれ」
「待て、ただいままいるから」
と龍太郎は、また二つ三つの岩をとんで、忍剣のそばへ寄っていった。焔を高くささげながら、じッと、あわだつ水面を透かしてみていると、やがて真白な泡がブクブクと湧きあがって、そのなかから、蓬のような、人間の黒髪がういてみえた。
「しめた!」
と忍剣は、岩につかまって鉄杖のさきをのばした。
おぼれている者は、まだ多少の意識があるとみえて、目のまえにだされた鉄杖へしっかりと、両手をかけた。
「オオ、はなすなよ――」
と声をかけながら、ズーと岩の根へひき寄せると、滝壺のなかの者はプーッと水を吹きながら、けんめいにはい上がろうともがくのである。
「拙者の手にすがるがよい」
龍太郎が片手をだした。氷のようにこごえた手が、ビッショリと雫をたらしてそこへすがってきた。
――と同時に、滝壺のなかからはいあがってきた少年をみたふたりは、おもわず声をあげて、
「やッ、そちは竹童ではないか!」
見まもると、上にいた伊那丸も、
「なに、竹童じゃ……」
とうたがうように叫んだ。そして、森のなかへすくいあげてから、たしかに鞍馬の竹童だとわかると、伊那丸をはじめ、あまりの意外さにぼうぜんとしたほどだった。
場所もあろうに、深夜の滝壺から、法師野いらい、久しく姿を見うしなっていた竹童をすくいだそうとは、なんたる奇蹟! あまりのことにあきれるばかりであった。
しかし、その人々のおどろきよりは、竹童のおどろきのほうが、どんなに強いものだったか知れない。かれは、忍剣に、森のなかへかかえこまれてきた時にありありとそこに燃えている赤い火をみた。
その火に照らされている、伊那丸のすがた、龍太郎の顔、忍剣の禅杖も、あきらかに、かれの眸に見えたではないか。
かれの目が癒えた。竹童の目があいた。
鞳たる滝の水にうたれて毒が洗われたためか――あるいは、竹童の精神を修養させる果心居士の心で、居士が、神力をもって癒やしたものか、とにかく、竹童はおのれの目の見えるのを疑い、と同時に、絶えてひさしき人々を、ここに見たのを夢のように、ふしぎがった。竹童の話をひと通り聞き終えると、龍太郎と忍剣は、交代で今回の都入りにまつわる一大事を詳しく話して聞かせた。
竹童は四方の話を聞いているあいだに、濡れた衣服を焚き火にかざして乾かし、身にまとった。
火のぬくもりで全身の血が生き生きとよみがえってくるのを感じて、彼はこの新しい力をどこへ注ぎ込もうかと胸を躍らせた。
話によれば、夜明けとともに若君の伊那丸は、二人を味方につけ、天ヶ丘から降りてくる和田呂宋兵衛の一族を迎え撃ち、桑名へと送られる父・勝頼公を奪還しなければならないとのことである。
またとない機会に巡り会えた竹童は、その壮挙に加わりたいと願い出て、すぐに伊那丸の許しを得た。
「では、龍太郎さま、忍剣さま」
彼はせっかちに立ち上がると、こう言った。
「まだ夜は明けておりませんが、私は一足先に天ヶ丘へ登って呂宋兵衛の様子を探り、頃合いを見て皆様に合図を送ることにいたします」
「うむ、間諜(スパイ)の役はいつも竹童の得意とするところ、お任せしてはどうでしょうか」
忍剣が伊那丸の顔をうかがうと、伊那丸も「小気味よいやつだ」とうなずき、竹童の姿を見ながらこう言った。
「では、我々三人は天ヶ丘から十四、五町手前にある寒松院の並木に隠れて待つことにしよう。そちは身なりが目立たぬのを幸い、出発の様子、人数、道順を漏らさず探って知らせてくれ」
「はい。必ずや残らず見届けてまいります。それから、まだ雷神の滝の上に師匠がいらっしゃるかもしれませんので、一言お礼を申し上げてから、その足で天ヶ丘へ向かいます」
「何と言う。では、果心居士先生がこの近くにおいでなのか。おお、ちょうどよい。ぜひお目にかかっておこう」
伊那丸は急いで立ち上がった。
龍太郎や忍剣も、居士の姿を拝んで久しいので、先ほどの松明を振りかざし、竹童を案内役にして雷神の滝の断崖をよじ登っていくと、やがて竹童が言った。
「皆様、ご覧ください。あのいちばん高い岩の上に師匠が立っておられます。そして、こちらの松明が近づいてくるのを待っておいでです」
指さす方を見ると、なるほど、滝の水明かりとほのかな星影を浴びて、孤岩の上に白い道士の衣が立っているのが見える。
「おお、老先生――」
龍太郎は遠くから見ただけでも懐かしさに耐えぬ様子で声を上げた。
熊笹に狭められた道や、凸凹の激しい坂を息を切らしながら登り、岩の根元まで急いだ四人は、そこに着くやいなや、岩の上を見上げて声を一つに呼びかけた。
「果心先生! 果心先生!」
すると――返事の声はなく、不意に孤岩の上の道士の姿がふわりと宙へ舞い上がったので、四人の瞳も「あっ」と空へ吸い寄せられた。
その時――
夜はまだ明けぬが、有明の月がかすかに雲の膜を破って、黒い鞍馬の山の端にかかっていた。
白い衣をつけた居士の姿だと思ったものは、なんと一羽の丹頂鶴であった! 真っ白な翼をバタバタと広げて四人の上で輪を描いて舞い巡り、あれよあれよという間に有明の月の影をかすめて、どこへともなく飛び去ってしまった。
しかし、四人はなおも岩の上に果心居士がいるような気がして、その上まで登ってみた。
そこには誰もいなかった。
ただ残されていたのは一本の刀。
滝壺の中に落としたと思っていた、竹童の愛刀「般若丸」が、水にも濡れずに置かれている。
「や、まだ何やらここに……?」
伊那丸は松明の光を近づけて足元を見つめた。
見ると、岩を削って数行の文字が小刀で彫り残されている。
それは疑いようもなく、果心居士らしい枯淡な筆跡で、
父子の邂逅はむなしく
小太郎山の砦はあやうし
と、わずか二行の文字であった。
しかし、この二行に過ぎない文字の予言は、武田伊那丸にとって、いや、その陣営のすべての人々にとって、なんとも絶望的で、戦慄すべき予言ではあるまいか。
泣き饅頭
一
予言とは、良き未来の暗示であり、あるいは戒めの謎である。
必ずしも文字の表に現れている意味ばかりが真実なのではない。その裏に隠された意味も深く読み解かねばならない。
父子の邂逅はむなしく
小太郎山の砦はあやうし
孤岩の上にこう彫り残した果心居士の心は、どう解けばいいのだろうか?
伊那丸をはじめ、忍剣も龍太郎も、そして竹童も、皆等しく松明が燃え尽きるのも忘れて、岩に刻まれた文字を見つめ、予言の意味を解き明かそうと思案に暮れてしまった。これを、書かれた言葉通りに受け取れば、こうなります。
(伊那丸よ――おまえが今望んでいることは無益だ。徒労に終わり、結局は幻滅を求めるだけに過ぎない。そんなことをしている間に、留守にしている小太郎山の砦は、徳川家康に攻め落とされ、あの裾野の陣の終局を迎えることになるぞ――)
そう思うだけで、身の毛もよだつような恐ろしい声が聞こえてくるようです。
しかし、まさかそんなはずはない!
伊那丸は心の底で、その考えを打ち消しました。
これは果心居士という老先生からの激励に違いない。
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