初級翻訳・神州天馬侠 第104話

吉川 英治

こう言われると、呂宋兵衛に従う山犬のような武士たちは、まるで耳の鼓膜を突き抜かれたかのようにたじろぎ、我先にと斬りかかる者はいなかった。「ええいッ、相手はたったの二人か三人だ、なにをもたもたしている! 袋叩きにして、さっさと首をあげてしまえッ!」
呂宋兵衛が怒鳴り散らしたのと同時に、ズドンッ! と一発、続いてもう一発、銃声が響いた! シュッと硝煙を上げて、伊那丸の耳元を弾丸がかすめていく。
「おっ、若君、敵は飛び道具の備えまでしておりますぞ!」
「なんの!」
武田伊那丸は小太刀を抜くと、軽やかに身を躍らせ、狙いを定めた呂宋兵衛の手元へと飛びかかった。
「それッ、頭領を討たせるな!」
と、押し寄せてくる兵たちを制しながら、木隠龍太郎も得意の戒刀を抜き放った。
――たちまち前後の四、五人を切り伏せつつ、例の鎖駕籠の手前まで駆け寄った。
そのときである――駕籠の屋根には、さっきから一人の老野武士が立っていた。
その男は上から銀象嵌(ぎんぞうがん)の短銃を構え、ちょうど三発目の銃口を伊那丸の姿に向けていたのだが、龍太郎が近づいたのを見るや、「おおっ!」と銃口を向け変えた。
「おのれッ!」
とたんに轟然と、また一発の銃煙が上がった。
老野武士は短銃を持ったまま駕籠の屋根から向こう側へひっくり返り、龍太郎の姿もまた、太刀を振るったまま煙の下へよろめいた。
短銃を握っていた者こそ、人穴以来、呂宋兵衛の軍師格を務めていた丹羽昌仙であった――ああ、好漢・木隠龍太郎よ、まさかこのような無名の野軍師と相打ちになってしまったのか?

三

龍太郎と伊那丸が呂宋兵衛の側面を突くよりも先に、たった一人で列の真っ正面から禅杖を振り回して飛び込んだ勇僧、それは言うまでもなく加賀見忍剣だ。
七、八人の野武士たちが九尺の槍の穂先をそろえてズラリと円陣を作り、彼を真ん中に閉じ込めてしまったが、笑止なことよ、忍剣の目から見れば、こんな薄っぺらな陣形など紙の襖を蹴破るよりも容易いことだった。
――見よ、錬鉄の禅杖が彼の頭上に振りかぶられ、いまにも疾風を巻き起こそうとしているのを!
カッと目を見開いて、加賀見忍剣が「命が惜しければどけッ!」と大喝した。
と思った瞬間――虚空からサッと振り下ろされた禅杖が、右側の槍を二、三本叩き伏せた! それッ、と左側から間髪入れずに繰り出された槍も、ビューッと禅杖が円を描いて戻ったとたんに、木端微塵! 三段四段に折れ飛んで、その持ち主は血の海に沈んだ。
「わッ」
と円陣の一角が崩れると、もはや彼らは戦意を失い、浮き足だって乱れてしまった。
忍剣はといえば、その隙に檻を出た猛虎のごとく、伊那丸の側へと駆け出していた。
伊那丸はどこまでも呂宋兵衛を逃すまいと追い詰め、いまや火花を散らす血戦を挑んでいた。
そこへ忍剣が駆けつけ、周囲の雑魚浪人たちを八方に叩き伏せながら、「若君、お助太刀いたす!」と、いきなり呂宋兵衛の横から斬りかかった。
「おう!」
と魔物のように吼えた呂宋兵衛は、すでに味方の半数は傷つき、半数はどこかへ逃げ出したのを見て、いよいよ狼狽した様子であった。
伊那丸の鋭い切っ先と、忍剣の禅杖を受けかねて、息を荒くし脂汗を流しながら一歩一歩追い詰められたが、そのうちに、ドンと後ろへつまずいた。
放り出された鎖駕籠――それへぶつかって、呂宋兵衛がヨロリと駕籠の棒に支えられた。
「しめたッ!」
と、いう声がその背後でした。
――誰かと思えば、さきほど弾煙の中に倒れたはずの木隠龍太郎である。
いかなる戒刀の達人であっても、飛び道具を前にしては危険であるため、わざと身を伏せていたのだった。
しかし龍太郎は、倒れたまま仮死を装っていただけではない。
彼は、丹羽昌仙が自分の切っ先から逃げ、周囲の者も目に入らない隙に、得たりとばかり鎖駕籠の側へ這い寄り、その錠前をねじ切っていたところだった――そこへ呂宋兵衛がよろめき込んできたので、龍太郎はなんの苦もなく「しめた!」と、その片足をつかんでしまったのである。
前には忍剣、横には伊那丸の太刀、足をつかまれて立ちすくみになった呂宋兵衛は、いよいよこれが最後かと思われたが、常にこうした窮地には、必ず南蛮流の幻術で姿を消すのが彼の奥の手だ。
いまぞとばかりに伊那丸と忍剣が一気に彼を討ち取ろうとした瞬間、どこからともなく、ビラビラビラビラビラッと吹きつけてきた針の風! それは呂宋兵衛の幻術ではない、すぐ傍らの松の木の上に、蝙蝠のごとく逃げ上がっていた蚕婆が、呂宋兵衛の危うさを見て、例の妖異な唇から含み針を吹いたのだ。
梢は高く、下へはかなりの間隔があった。
無数の針は音なき風となってピラピラと飛んできても肌に突き刺さるほどではなかったが、あたかも毒蛾の粉のように身を刺したので、二人は「あッ」と顔を背けた。その一瞬のことでした!
「ええッ!」
と鋭く叫んで龍太郎の手を蹴り払った呂宋兵衛は、いきなり駕籠にかぶせてあった鎖の網をつかみ取ると、パッと大地へ投網のように投げつけました。
「あッ、また妖術を――」
と叫ぶ間もなく、龍太郎の体がその鎖網の中にすっぽりと包み込まれてしまいました。これを見て驚いた忍剣が、禅杖で風を切りながら「五体微塵になれ!」と振り下ろしましたが、なんと奇怪なことでしょう。一陣の黒い風がサッと吹き抜けると、いままで明るかった春の朝の光はどこへやら、あたりは見る間に墨を流したような暗闇に塗りつぶされ、ザアッ――という木の葉が擦れる音とともに、雨か霧かしぶきか、正体不明のしめっぽい水粒がもうもうと立ち込めてきました。
と同時に、呂宋兵衛の体は、邪法の秘術の印を結びながら、ヒラリと駕籠の屋根へと飛び移りました。
あれよあれよと目を見開いている間に、真っ暗になった両側の松並木の根元から、サラサラサラサラ……という水音がして、たちまちこんこんと清らかな水があふれ出し、その勢いが駕籠を動かして、呂宋兵衛を乗せたままスゥーッと舟のように流れ出したのです。
「魔人め。また邪術を使ったな!」
「若君、若君! これは呂宋兵衛の幻惑ですぞ。決してその手に乗って、ひるんではなりませぬ!」
投げかけられた鎖を振り払って、龍太郎と忍剣が、流れていく駕籠をジャブジャブと追いかけますが、その時にはもう街道は、一面の濁流となっていました。折れた槍や、血に染まった武具、死骸が浮かび上がり、下手をすれば伊那丸までもが足を取られて溺れそうになるほどの激流です。
「ちぇッ、残念だ!」
水の勢いがすさまじく、足の運びを阻んでしまうため、さすがの伊那丸も二人の勇士も、目の前に仇を見、目の前に父の駕籠を目撃しながら、どうしても追いつくことができません。
その間に、筏のように水に浮いた駕籠がグングンと揺れながら押し流されていき、その上では和田呂宋兵衛が、「ざまを見ろ」と言わんばかりに白い歯をむき出し、あざ笑っています。
「うーむ、おのれ邪法の外道め、覚えておれよ!」
水の勢いに巻かれて、なす術もなく立ち往生してしまった主従三人は、もう胸の高さまで濁水に浸かり、木の枝につかまりながら敵の行方を睨みつけていました。

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