初級翻訳・神州天馬侠 第167話

吉川 英治

小幡民部は相変わらず表情一つ変えずに眺めており、伊那丸も冷静そのものでしたが、騒がしいのは竹童です。
「強いなあ、才蔵さまは本当に強い。あれは福島市松の家来で、おいらはあのおじさんを知っているんだ! あの人と話したこともあるんだぞ!」
と、一人で興奮しています。

残念そうに腕をさすっているのは、朱塗りの槍を担いでいる巽小文治です。
「うーん、俺も試合に出てみたい!」
「だめだ」と、蔦之助がそれを遮ります。
「どうしても、若君からお許しが出ないんだ」
「もう一度、お願いしてみようじゃないか」
「じゃあ、貴公が言ってみたまえ」
「蔦之助、お前から一つお願いしてみてくれ、頼むよ。拙者はもう我慢ができない」
とコソコソ囁き合っているのを耳にした忍剣。実は彼自身も、誰よりもさっきから腕がうずうずしていたところなので、
「民部さま、蔦之助や小文治があのように申しておりますゆえ、なんとか若君におすがりして、試合に加わることをお許しいただけるよう、一つお取りなしをお願いしたいものでござるが……」
民部は、忍剣の心を見透かすように苦笑して言いました。
「さあ、なんとおっしゃるか。お側においでなのだから、おのおのがた自身でお願いしてみたらよかろう」
と、しごくあっさりしています。
「いかんわい」
と、忍剣は頭をかいて、龍太郎の脇の下をそっと突っつきました。「おい、頼むよ」
「何が?」
「あんたから若君にお願いしてくれ。誰だって、ここで日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らして、腕がうずいて仕方がないのをなだめてやりたいのは人情だろう?」
「そりゃ、俺だって木隠流(こがくれりゅう)の戒刀(かいとう)を思う存分振るってみたいのは山々だが」
「だから……あんたから若君にちょっと頼んでくれよ」
「うむ……うぅ……」
と口の中で返事はしたものの、冷ややかに別の方向を見つめている伊那丸の顔を見ると、どうも言い出しにくくて、「あんたが言え」「いや、お前が言え」と互いに責任を押し付け合っているばかりでした。
そんなやり取りにふと気を取られていたところ、試合場の騒ぎはますます混乱を極め、母衣馬(ほろうま)や目付(めつけ)たちがものものしく駆け回り、何やら番組が急に変更される合図らしい太鼓の音が、ドーンと鳴り響きました。忍剣も小文治も、ハッと口をつぐんでそちらへ目をやりました。

見ると、笹の才蔵は後ろ姿をこちらに向けて、勝ち逃げするように豊臣家の幕の影へ引き下がろうとしています。
その一方で、怒号が聞こえてきました。将棋倒しに破れた剣道方たちの溜まり場の幕が嵐のように揺れ、人間が渦を巻いて揉めています。
「待てッ! 可児才蔵、待てッ!」
制止しようとする目付役を振り切って、突然、才蔵の後ろ姿を追いかけた猛々しい男がいました。
祇園藤次(ぎおんとうじ)です。
すわ、遺恨試合だ!
「待て待てッ! 才蔵、もう一勝負だ!」
藤次は吉岡流小太刀の使い手で、右手に白く磨かれた栴檀(せんだん)の木太刀をひっさげていました。
自分の控え場まで帰り、今まさに幕の裾に手をかけようとしていた才蔵は、「よし!」と言うが早いか、槍を持ち直して敢然と試合場のほうへ引き返してきました。しかし、まだ礼も済まないうちに、血気にはやった祇園藤次が颯然(さつぜん)と踊りかかりました。
立会いの奉行と目付が制止しようと声をかけましたが、怒りに燃える藤次の耳に届くはずもありません。
「卑怯な、作法を知らぬか!」
才蔵はそう叱りつけると、サッと槍を自分の手元へ引き寄せました。
藤次はギクッとして胸板を守ります。小太刀をピッタリと青眼(せいがん)の不動の構えで構えました。しかし、一閃! 構えは破られ、祇園藤次はタジタジと後ろへ下がりました。
それを食いつくように追い詰める才蔵の足の親指。
相手は真槍です。遺恨試合となった以上、肉を、腹を突くであろう!
「やわか!」と藤次は必死です。後ろの溜まりでは仲間の侍たちがワーッと熱風のような声援を送りましたが、だめ、だめ、だめ。一尺、二尺、三尺――すでに七、八尺も槍に追い詰められた祇園藤次は、
「ムムッ、おのれ!」
と捨て身になり、自らバッと反発するように打ち込みました。
その瞬間です。
突くように見えた才蔵の槍が、片手で藤次の体を払いましたが、パキン! という凄まじい音とともに、藤次の手にあった一尺三、四寸の白栴檀の小太刀が、槍で跳ねられた勢いそのままに、クルクルとトンボを切って空高く舞い上がりました。

そして、藤次は? 才蔵は? この勝敗は?
いや、群衆は一瞬にして試合の結果など脳裏からすっかり忘れ、
「あ! あ! あ! あ! あッ!」
と、空へ向かって目を見開きました。
小太刀が小さくなっていく空の彼方へ――。

読者よ。
次に起こる驚天動地の争闘。御岳山上におけるこの物語の大事な見せ場を描くために、あえてここに緩慢な数行を費やす筆者の心づもりを許してほしい。
偶然にも遺恨試合となって激怒したはずみで、才蔵の槍の勢いにより虚空へ飛ばされた白栴檀の木太刀が、その時、何事もなく地上へ落ちて戻ってきさえすれば、何の問題もなかったのである。
たとえ才蔵一人に多少の嫉妬が残ったとしても、後に現出したような意外な大事件にはならなかっただろう。また、若者たちの血気を「事なかれ」と極力抑えつけていた伊那丸や民部も、何事もなく御岳の大講会二日目の行事を見届けたに違いない。
しかし、不測の変事というのは、いつもこうして意表を突くところから顔を出す。
――この大講会で血を見るなかれ!
――この大講会で邪兵を動かすなかれ!
神官は祭壇でそう祈祷したが、あの勢いで飛んだ一片の木太刀が、全く予想もしなかった風雲を地上へ呼び込むことになろうとは、おそらく御岳の神の叡智にも分からなかったことであろう。

美女天に遊ぶ

一

さて。
空高く飛ばされた栴檀の木太刀。
その行方を追って、一斉に空を見上げた群衆の瞳は――ハッと一瞬、何か異様なものにつきあたったかのように、
「あッ、あれは――」
と、妙な顔つきになった。
魂を抜かれたような表情。呆気にとられた目。
現(うつつ)と夢のあいだで、群衆はぼうぜんとしていた。
その瞬間、
ドウーッという空鳴りが宇宙を低く走った。すると、まるで真っ黒な怪物が、太陽の光をその巨大な翼で隠すようにして現れました。空高く舞い上がった栴檀(せんだん)の木太刀を狙い撃つように、どこからか魔風のごとく急降下してきたかと思うと、ガツン! という音とともに、その鋭い嘴(くちばし)で空中の木太刀を本能的にくわえ取ったのです。

「鷲だ!」

ぼうぜんとしていた人々の心に、雷のような衝撃が走りました。
「おおっ!」
「あれよ、あれよ、あれ! ……」
数万人の群衆は、まるで掘り起こされた虫のように地上で黒々と蠢(うごめ)き、ただ騒がしく叫び、喚(わめ)き立て、辺りは巻き上がる砂埃で真っ白になりました。
試合にばかり気を取られていた人々は、ほんの少し前、御岳の西方にある御前山の森からこの怪物が舞い上がり、浅黄色に澄み渡った空に緩やかな弧を描いていたことに、誰も気づいていなかったのです。

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