それを浜松城へ突き出す罪人などとはとんでもない誤解、どうかその婦人は我らの方へ引き渡してほしい」
(こやつ、狂人に違いない)
石見守は相手にせず、一火に向かって言いました。
「いい加減にせよ、こうして手間取っていては、肝心の試合の進行が遅れるばかりだ。どうか、あそこにいる咲耶子を縛り上げて、こちらへ渡してもらいたい」
「いやいや、たとえこの世に姿を現している身とはいえ、勢至菩薩を縛り上げるなどと、後の仏罰が恐ろしくはないのか。あの婦人は我ら五人へ渡していただきたい」
「ふらちな生臭坊主め、文殊菩薩だの勢至菩薩だのと、誰がそのようなたわごとを信じるものか。おい一火先生、ぜひとも咲耶子は、この長安のほうへ引き渡してくれ」
「いや、ぜひとも我ら五人の菩薩へ!」
「いいや、長安が受け取る!」
「断じて拙僧がもらい受ける!」
双方が言い争い、鐘巻一火の陣幕の前から一歩も引こうとしません。これが御岳の神文が守られる三日間でなければ、とっくに長安は家来に目配せして抜刀を命じていたでしょうし、短気な忍剣の禅杖が、真っ先に石見守の頬骨を砕いていたかもしれません。
しかし、幸か不幸か、ここは血を流してはならない場所であり、神聖な三日間なのです。善悪を問わず、先に神文の約束を破れば、天下の武芸者としての信用を失ってしまいます。そのため、これはどこまでも我慢比べの交渉となりました。
困り果てたのは鐘巻一火です。彼が大久保長安に言った言葉に、偽りはありません。一火流の腕前を見せつけるという目的は既に達しており、咲耶子の身柄など彼にはどうでもよいことでした。内心では、どちらかに渡してしまっても構わないと考えています。しかし、長安に渡すのが妥当なのか、それとも五人の菩薩を名乗る者たちに渡すべきなのか。双方の板挟みになり、すっかり困惑した表情を浮かべています。
しかも、五人の偽菩薩たちの顔色を鋭く見ると、もし自分が石見守に加担して「いやだ」と突っぱねれば、どんな手段に訴えてくるか分からない底知れぬ怖さが読み取れました。
そこは一火も一流の武芸者。
(うむ、これは大難事だ。うかつに軍配を上げられんぞ)
早くもそう察したため、余計にこの難問の決断を下せなくなっていたのです。
一方、群衆のほうでは、人垣越しに遠くを眺めているため、こうしたやり取りが起きているとは分かりません。ただ、いつまでも試合場の中央が空っぽのままで、人々が右往左往しているので、盛んにガヤガヤと騒いでいます。
すると、鐘巻一火。
双方の仲に板挟みとなってしばらく腕を組んでいましたが、やがて大久保側の者と忍剣たちの両方に向かって、
「お望みの咲耶子とやらの身柄は、何時にても苦情なくお渡しすることにいたそう」
と公平に言い放ち、クルリと幕の裾をまくり上げました。
――そして、
「お渡しすることはお渡しいたしますが……ただしです。どちらへお渡しするのが正義なのか、一火もほとほと困惑しております。ついては、しばらく休憩の間に門弟たちと評議を重ね、改めてご返答いたします。失礼ながら、しばらくそれにてお待ち願いたい」
ハラリと帳を下ろすと、幕の陰へ引っ込んでしまいました。
――この場合はのんきすぎる――。
そう思う間もなく、鐘巻一火はまた幕を絞って現れました。解決がついたのか、先ほどの困惑した表情は晴れています。
「咲耶子が意識を取り戻しましたぞ」
彼は双方に向かって言いました。
「おう、では大きな怪我はないのか」
「腕の鉄砲傷は急所を外れておりますし、ただいま門人に手当をさせておりますので、別段の心配はないようでございます」
そう言ってから、「さて」と言葉を改めて続けました。
「ただ今の件、一同評議の結果、これはやはり御岳の神慮にお任せするのが当然であろうという意見に一決しましたが、双方異存はございませんかな」
「神慮に任せるという意味は、神籤でも引いて決めようということか」
長安は不満そうな色を浮かべて尋ねました。「いや、神籤よりは武道試合の日のできごと、やはり、武技をもって神慮に問うのが自然であろう」
「なるほど!」
忍剣は、よし、というふうにうなずいて、
「では、われわれと大久保家の家臣とが、武技をたたかわせたうえに、その勝ったほうへ咲耶子を渡してくださるというのですな」
「いかにも。石見守殿、ご賛否はいかがかな」
「うむ。よろしい!」
石見守も、いさぎよく承知しました。が――すぐにあわてた様子で、
「いや待った、それには条件がある」
「ふむ、条件とは?」
「自分が総奉行であり、重なる家臣たちが目付という役目上、大久保家ではこのたびの試合に、一切、自分たちからは誰も出していない。それゆえ、主君の直参である浜松城の人々に、その代わりの試合を依頼するが、その件、異存があるなら承知できぬ」
「なに、徳川家直参の者に代試合を頼まれるとは、それは願ってもないこと、当方に異存はない」
「では一火殿、かならず違約なしという神文血判をしてほしい」
「誓紙の支度は暇どるばかり、それよりも武門の金打(きんちょう)、お互い疑いあるな」
「おう。では浪人ども、あちらの空部屋へさがって試合の用意をせよ」
長安は奉行の床几席(しょうぎせき)へ大股にあるいていって、あたりの家臣と頭をあつめて相談し、また徳川家の者がひかえている溜まりへ使いを走らせました。
見物人はそういう内情を知りません。ただ、床几席に奉行の姿が見えたし、検証の位置に鐘巻一火がひかえたので、
「さあ……」
と、にわかに空気をかえて、つぎの試合を期待しました。
「うまくいったな」
「思う壺と申していいな」
龍太郎や小文治は、顔を見あわせ微笑しました。
長安は空部屋をさがして支度せよと言いましたが、見渡したところ、どれも立派な大名家の紋が入った幔幕(まんまく)ばかりで、そんな都合のよい場所はありそうもなく、五人の勇士も、それには少し立ち往生していました。すると、
「ご浪士、ご浪士」
とうしろで呼ぶ者があります。見ると、先ほど栴檀刀(せんだんとう)をハネ飛ばした、すばらしい槍の使い手、可児才蔵(かにさいぞう)でした。
「支度の場所にお困りのご様子。お嫌でなければこの幕のうちへ」
と、五三の桐の紋が入ったとばりをあげて、ニッコリと五人を目で招きました。
*
【紅白の鞠盗み】
一
誰かは知らぬが、折に触れて「相身互い(あいみたがい)の武門の情け」という言葉があるのは、実にゆかしくも嬉しいものです。飛び入りというのでもなく、意外なことからここに咲耶子の身をとるか渡すかの試合となった一同が、支度の場所もなく途方に暮れているところへ、五三の桐の幕のかげから「これへ」と差し招いた親切な武士。
忍剣、龍太郎、小文治、蔦之助、竹童の五人は、時にとって炎暑をしのぐ一樹の陰ともありがたく思いながら、
「ご芳志にあまえて、しばらくのあいだ、幕の一隅を拝借つかまつります」
と静かにくぐって中へ通り、隅にのべてあるむしろの上へ、めいめいつつましく座り込みました。
すると、そこに真っ赤な顔をして、ゆうゆうと酒を飲んでいた豪放らしい侍がいました。
コメント