初級翻訳・神州天馬侠 第174話

吉川 英治

耳を聾せんばかりのどよめきが、土用波のように見物人たちを揺り動かした。何かを罵るような声、嘲笑するような怒号が、嵐のように彼を取り巻いた。
「遠矢一本試合、徳川家・加賀爪伝内殿が的を射抜いたり!」
鐘巻一火が、検証の床几から叫んだ。
意外な結果であった。蔦之助は敗れたらしい。
今為朝(いまためとも)の矢はどうしたのか? あの確かな代々木流の矢が、どうして狂ってしまったのだろうか。

二

鐘巻一火が叫んだのは、決して不公平な判定でも嘘でもなかった。加賀爪伝内が放った黒鷹の羽を使った石打ちの矢は、間違いなく白鳥の峰の大鳥居の額縁に突き刺さっていました。それに対して、蔦之助が放った妻羽白(つまはじろ)の矢は、弓の勢いが弱かったのか、谷間の気流に押し流されてしまったのか、あるいは弦から離れる瞬間の指先のわずかなミスだったのか……とにかく、白鳥の峰に届くことさえなく、霧のように影を消して、どこへ落ちたのか、あるいはどこかへ逸れてしまったのか、肉眼ではまったく確認できなくなってしまったのです。

お小姓とんぼ組をはじめとする徳川方の者たちや、彼らに心を寄せる見物人たちが、一斉にわっと勝ちどきを上げました。
無念の思いに沈む山県蔦之助は、試合の審判から退場を命じられ、見物人たちの嘲笑を背中に浴びながら、肩を落としてその場を去らなければなりませんでした。

すると――。
試合の行方を心配するあまり、それより少し前に桐の紋が描かれた幕の後ろからそっと抜け出していた鞍馬の竹童は、何気なく諸国の剣士たちが待機する控え所の裏をまわり、蔦之助の姿が一番よく見える場所から様子をうかがっていました。
ところが、竹童の期待は裏切られてしまいました。弓を手にすれば神業とまで言われた蔦之助が、なんと、このような不覚をとるとは! これほど無残な負け方があるでしょうか!

「ちぇっ!」

鞍馬の竹童は、悔し涙がにじみ出てきて、思わずその場に座り込みたくなってしまいました。
あの徳川方の連中の嘲笑は、伊那丸様や民部様の耳にどれほど痛く響いたことでしょう。
観客席にいる豊臣家の人々や、忍剣(にんけん)、小文治たちは、この結果をどんなに辛い気持ちで見つめていたことか。
竹童は、腰を支える力が抜けてしまったかのように、後ろへよろめきました。

そして、
「ああ、残念だ……」
と大きなため息をつきましたが、ふと気がつくと、そこは奉行小屋の裏手だったようです。すぐ向こうには十数間のあいだに黒い鯨幕(くじらまく)が張りめぐらされており、一方の幕には黒く染め抜かれた葵の紋が大きく風をはらんで揺れていました。

「あっ、ここは徳川家の陣地だな」
竹童はびっくりして、あわててそこを立ち去ろうとしましたが、見たのです! そこから数歩向こう、誰もいない陣幕の影に隠れて、あやしげな黒衣の男がじっと立ちすくんでいるのを。

何者だろう?
そして、何をしているのだろうか。
恐ろしいほど背の高い男です。裾までスラリとした黒い着流しで、胸元にはペルシャ猫の目のようにキラキラと光る白金の十字架をぶら下げています。
そして、まるで祈っているかのように口を閉じ、目をふさぎ、指で不思議な印を結んでいるのです。

「やっ、呂宋兵衛(ろそんびょうえ)だ!」

あわや喉を突き破って飛び出しそうな声を、竹童は自分の手で必死に押さえつけました。
「やつめ、あんなところで何をしているんだ? ……おお、あの恐ろしい表情を見てみろ。あの、何事にも動じないような顔をしている時は、いつも呂宋兵衛が得意の南蛮流の幻術を使う時だ」

身を潜めながら、竹童の目はらんらんと輝き、その不可解な光景に対して、錐(きり)のように鋭い洞察力を研ぎ澄ませていきました。

分かった!
竹童の心臓が、ドキッと締め付けられるような激しい鼓動を打ちました。
さては、もしや?
怪人・呂宋兵衛がこの幕の裏に忍び込んでいて、石見守と結託し、彼一流の邪法を使って試合場に悪気を送り込み、大勢の人々の目を幻惑させていたのではないだろうか?
そして、そのせいで、今のような意外な勝敗が、誰にも気づかれずに「真実」として受け入れられているのではないか?

そう確信した竹童は、我を忘れて、なおも死人のように印を結んで立ち尽くす怪人・呂宋兵衛の黒い裾のほうへ、ソロリ、ソロリと忍び寄っていきました。

三

なんと久しぶりに見る、憎き敵の姿でしょう。
竹童の手は、無意識のうちに愛刀「般若丸」の柄を固く握りしめていました。
たとえ倒すことができなくても、不意を突いて、奴の邪法の気配を打ち破ってやろう。
そんな衝動が、竹童の体から自然と湧き上がってきました。
そうとは知らず、気配を殺して足元に忍び寄る者がいることにも気づかず、呂宋兵衛は相変わらず目を閉じたままです。
彼は自分自身が繰り出す幻術の妖気に、すっかり酔いしれているようです。

しめた!
竹童の胸は大きな波に翻弄されるように高鳴りました。
しかし、名刀「般若丸」の鞘を払おうとしたその瞬間、ハッと気づいたのは「血を見るなかれ」という御岳三日の神誓でした。
もし自分の軽はずみな行動が、伊那丸様の身に災いとなって降りかかったらどうしよう、という思いがよぎったのです。
とはいえ、この怨敵を!
目の前にこうして堂々と立っている一党の仇敵、咲耶子にとっては命の敵であるこの悪魔を、どうして見逃すことができましょうか。

柄に迷った手は、急に懐(ふところ)へと滑り込みました。
指に触れたのは、竹生島神伝の「火独楽(ひごま)」でした。
それを懐から掴み出し、いきなりパッと立ち上がるや否や、鞍馬の竹童は、
「うぬっ!」
と、独楽を真っ向から振り上げました。
ブンッ! と唸りを上げた火焔独楽。
間違いなく呂宋兵衛の体のどこかに、炎を上げて噛みついたに違いありません。「あッ」と、相手が驚きの声を上げたのが竹童の耳にも聞こえました。
しかし、次の瞬間――。
火炎独楽は竹童のふところへ飛んで戻ってきて、竹童自身も「アッ」と片手で顔を覆ったまま、あやうくその場に倒れ込みそうになりました。
見ると、襟元から鬢(びん)の毛にかけて、霜柱が植わったかのように、無数の針が肌に突き刺さっています。
そのことに驚いて身をひるがえすと、
「この餓鬼め!」
大きなコウモリのような黒衣の老女が、サッとすがりついてきて、うしろから竹童を抱きすくめました。
「呂宋兵衛(ろそんびょうえ)さま! 呂宋兵衛さま!」
としわがれた声で助けを求めます。
「おっ、こいつは鞍馬の洟(はな)ったれだな」
「わしも人無村(ひとなしむら)や京都で二、三度見たことがある。竹童というて、伊那丸の手先になってうろついている子供じゃ」
「おのれ、野良犬のように、こんなところへ何をしにうろついてきやがった。この御岳(おんたけ)では殺すわけにもいかぬが、うむ、こうしてやる」
呂宋兵衛が歩み寄ってくると、煙草色の産毛が生えた大きな手のひらで、竹童の横顔を、みみず腫れになるほど三つ四つと打ち続けました。

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