死体でも何でも見せるから……うんうん……」
大塚警部は一人で納得したように、形式だけ片手を上げると、くるりと私に背中を向けて、さっさと筥崎署の方へ歩いて行った。そのうしろ姿を見送りながら私は、昨日のまま上着のポケットに入っている、ヨシ子の名刺と質札を、汗ばむほど握り締めた。いつの間にか私自身が、大塚警部の手中に握り込まれていることに気がついて……。
私は急に身を翻すと、案内を知っている法文学部の地下室へ駆け込んで、交換嬢に本社の編集長を呼び出してもらった。
「もしもし。僕は今、法文学部の交換室からかけているんですがね。昨日の夕刊の記事ですね。あれは取り消しを申し込んでくる奴があっても、絶対に受け付けないでください」
編集長の上機嫌な声が受話機に響いた。
「ああ。わかっている。今朝六時頃にな、佐賀の時枝の親父が僕のところへ駆け込んできて、取り消しの記事を頼んだよ。それから九大の寺山博士がつい今しがた本社へやってきて、早川という男は自分のところに居るには居るが、色魔云々の事実は無いようである――」「それから、これは眼科の潮教授の代理としてお伝えしますが、時枝という看護師が眼科にいたのは確かでも、四か月ほど前に辞めています。ですから、新聞の写真の人物と同一人物かどうかは分かりません……といったような、くだらないことをくどくどと言ってきましたが、どちらも適当にあしらって追い返しておきましたよ」
「ありがとうございます」
「あとの記事のネタはないのかい?」
「……あります……時枝の親父と九大内科部長が、あなたのところへ事件を揉み消しに来たという事実です」
「アハハハ、一本取られたな。しかし、そのほかに時枝の娘に間違いないという確証はないのかい?」
「あります……ここに持っています。死んだ娘が悲鳴をあげるような証拠を……」
「そいつは新聞に出せないのかい?」
「出してもいいですけど、遺体をかき回してつかみ取ってきたものですから。検事局へ引っ張られるのはごめんですからねえ」
「いいじゃないか。あとは私が引き受けるよ」
「……でも……あなたと一緒に飲めなくなりますから……」
「アハハハハ。そうかそうか。サヨナラ……」
「……サヨナラ……」
それから三四十日ほど経った、ある蒸し暑い晩のことです。私は東中洲のカフェで、偶然に私服姿の大塚警部に出くわしました。警部は誰かを探している様子でしたが、私が声をかけるとすぐに私のテーブルへやってきて、ビールを注文しました。
その顔を見ているうちに、ふと思い出して尋ねてみました。
「ところで、どうなったんですか……あの事件は……」
「……あの事件?……うん、あの事件か。あれは、あんなもんさ。医学士は二人とも、君の書いた記事に驚いたようで、それからは神妙にしているよ」
「いや。女の身元の件ですよ」
「うん。あれもそのままさ。今頃は共同墓地で骨になっているだろうよ。可哀想に、君のおかげで親に見捨てられた上に、恋人にまで見捨てられた無名の骨が一つできたわけだ」
「……………………」
「何でもその女が線路に倒れてから間もなく、色男の医学士らしい洋服の男が駆けつけて、懐や帯の間をかき回して、証拠になるものをさらっていったという噂も聞いたがね。でも、その時刻にはその色男は、ちゃんと下宿にいたというから……。どうもおかしいんだ」
「……うーん……おかしいですね……」
「……とにかくあの別嬪(べっぴん)は、君が抹殺したようなものだぜ。その色男というのは君だったかもしれないがね……ハッハッハッ、まあいいわ。久しぶりに飲もうじゃないか」
二人はそれから盛んにビールを飲みましたが、私は妙に大塚警部の言ったことが気にかかって、どうしても酔うことができませんでした。しまいにはやけくそになって、警部が出て行くのを待ちかねてウイスキーを二、三杯、立て続けに引っかけると、やっと眠くなってきました。
しかし、ウトウトし始めると間もなく、目の前の空間に空色のパラソルが一本、美しく光りながら浮き上がってきました。そうしてふわふわと舞い上がりつつ、左手の方へ遠く、遠く、小さく、小さく消えていった……と思うと、また一つ同じパラソルが元の場所にほっかりと浮かび出します。それがだんだんと小さくなって左手の方へ消えていくのを見送るたびに、私は何とも言えない、沈み込むような恐怖を感じ始めました。
私はハッと目を見開いて、キョロキョロとそこいらを見回しました。そして、その恐ろしさを打ち消すために、もう一杯、また一杯とグラスを重ねましたが、飲めば飲むほどその幻影がはっきりしてくるのです。しまいには、美しいパラソルが後から後から浮き出して、数え切れないほど空間を乱れ飛ぶようになりました。その目まぐるしい光景を凝視しながら、私はガタガタと震え出しました。
その二 濡れた鯉のぼり
あのパラソルの事件以来、私はぴたりと盃を手にしなくなりました。それでも時折、たまらなく喉が鳴ることはありましたが、飲めば必ず酔う……酔えばきっと空色のパラソルの幻影を見る……ガタガタと震え出す……という逆らえないつながりに脅かされて、とうとう完全な禁酒状態に陥ってしまいました。そんな事情を知らない連中を、かなり不思議がらせたようです。
何しろ以前は酒に溺れていた絶頂だったので、飲み仲間たちは一時真剣に心配したり、冷やかしたりして、手を変え品を変えて理由を詰問したものです。しかし、私はただニヤニヤと笑うばかりで、一言も説明らしい説明をしませんでした……いいえ、説明したくなかった……というのが本当のところでしょう。
そして、そのおかげというわけでもないでしょうが、事実はやはりそのおかげに違いなかったのでしょう。私は間もなく社長の仲介で妻を迎えました。私の禁酒を不思議がっていた連中は、そこでやっと訳が分かったような顔をして、盛んに私を冷やかしたものです。けれども私は、依然としてニヤニヤしたまま押し通しました。そうして、福岡から二里半ほど北東にある香椎村に二人だけの新しい家庭を築き、そこから汽車で福岡へ通勤することにしました。しかし、私は新妻から尋ねられた時にも、やはりニヤニヤと笑うだけで、「どうして酒が飲めなくなったのか」という理由を説明せずに済ませていました。……パラソルの女を見殺しにしたおかげで、お前と結婚できたのだ……という結論になるのが、なんとなく嫌でたまらなかったからです。
ところが、それから一年足らずが過ぎた、翌年の五月十日のある曇った朝のことでした。九州本線の下り列車は、いつものように風光明媚な香椎潟を横断し、多々良川の鉄橋を越え、前の事件の舞台となった地蔵松原の入り口で大きく曲がると、一直線に箱崎駅まで、とても気持ちのいいスピードで走ります。その線路の南側に広がる麦畑や菜種畑のモザイクを、松原越しに眺めるともなく眺めているうちに、ふと妙なものが私の目に止まりました。
松原の中には、一町四方ほどの墓地があります。
その南の端、少し離れた場所にある小さな白木の墓標の前に、赤と青と黒の、大小三匹の鯉を繋いだ低い幟(のぼり)竿が立っていました。
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