初級翻訳・空を飛ぶパラソル 第6話

夢野 久作

……そう思った瞬間に、その光景は松の幹が重なり合った影になって見えなくなりました。
……この頃に亡くなった男の子の墓かな……と思うと、私はなんとも言えない嫌な気持ちになりました。
じっと目を閉じると、間もなく、薄暗くダラリと垂れ下がった鯉のぼりの姿が、再びありありと瞼の裏側に浮かび上がってきたので、思わず頭を強く振りました。

しかし、箱崎駅で汽車が停まると、私は妙に降りてみたくなりました。
それでもしばらく迷って考えていましたが、発車間際に思い切って飛び降りてみると、今度はどうしても、もう一度あの墓地へ行かなければならないような気持ちになりました。
それは一種の新聞記者としての本能で、あの墓地の鯉のぼりが何か面白い記事になりそうだと直感したからでもあったでしょう。……が……一方から考えると、この時すでに、あの鯉のぼりが象徴する不可思議で悪魔的な魅力が、ぐんぐんと私の心を引き寄せていたのかもしれません。
結局、会社へ出るのを後回しにして、鉄道線路を十五、六町ほど引き返すと、先ほどの墓地へやって来ました。

幟竿は墓地の最南端、麦畑や村落を見渡せる場所に立てられていました。
二間ほどの細い杉の丸太の根元を砂の中に埋めたもので、大小三匹の紙製の鯉は、いずれも数日前からぶら下がっていたものらしく、上の一番大きな緋鯉(ひごい)も、その次の青い鯉も、下の小さな黒い鯉も、雨や夜露に打たれて色が剥げ落ちたまま、互いにペシャンコになって貼り付いていました。
その中でも一番下の黒い鯉は、半分以上が白くなっていましたが、上の二匹から滴り落ちた赤と青のインクをダラダラと浴びて、まるで血まみれになっているようで、白い砂の上に引きずった尾の周りはもちろんのこと、幟竿の根元から白木の墓標の横腹にかけて、いろんな毒々しく気味の悪い色の飛沫(しぶき)を一面に撒き散らしたまま、ダラリと静まり返っています。
ただ、竿の上に取り付けられた矢の羽型の風車が、これも色を失ったまま、時折、あるかないかの風を受けて回転しかけては、ク――ッ、ク――ッと陰気な音を立てているだけです。……空は一面の灰色に曇って、今にも雨が降り出しそうです。

私は白砂の染まった場所を踏まないようにぐるりと遠回りをして、小さな松の角材で作られた墓標の表面を覗いてみましたが、またも奇怪な事実を発見して、思わず唾を飲み込みました。……真っ黒になるほど滲み流れた墨汁の中に、「花房ツヤ子之墓」と書いた拙い楷書体が威張っているのです。
裏の文字を見ると、「……四月三十一日卒……行年二十三歳……」とあります。……つい十日ほど前に亡くなったばかりの仏様です。
……若い女の墓と……鯉のぼりと……。心の中で繰り返しつつ、私はしばらくの間、石のように立ちすくんでいましたが、やがて思い出したように横を向いて唾を吐きました。

それから二十分ほど経つと、私は箱崎の町役場へ行って死亡届を調べていました。
そして、それからまた十分ほど後には、箱崎八幡宮の裏手の森の陰にある、「花房敬吾」と表札が出された、長屋風の格子戸の前に立っていました。
「……御免ください……お頼み申します……御免ください……」
と二、三度繰り返すと、何の返事もないまま、格子の中の玄関の破れた障子がガタガタと開きました。
「……敬吾かい……」
というしゃがれた声が聞こえると間もなく、一人の老婆が、障子にすがりつくようにして這い出してきました。
私はまたしてもドキリとさせられました。
古い格子越しに見ると、その老婆は黄色い胡麻塩頭がぼうぼうに乱れ、全身が死人のように生白く、どんよりと霞んだ青い瞳を二つ見開いて、一本も歯のない白茶けた口を、さも嬉しそうにダラリと開けています。
身体には垢だらけの手拭いのような浴衣を着て、赤い細帯を巻いていましたが、帽子を取った私の顔を見上げると、みるみるうちに暗く萎び込んだ表情に変わってしまいました。「どなた様で……あなた……」
と頭を下げながら、老婆はゴクリと唾を飲み込みました。
私は返事をするのを躊躇(ちゅうちょ)しました。この新聞のネタになりそうな光景に出会った最初から抱き続けている、何とも言えない嫌な感じを、このままもっと深く掘り下げてみるべきか……それとも、この辺りで思い切って諦めて、もっと明るくテキパキとした、別の題材に乗り換えるべきかと、一瞬迷ったのです。
けれどもその時、私はこれまでの惰力とでもいうべき一種の気持ちに背中を押され、つい間に合わせの返事をしてしまいました。
「……ええ……敬吾君と以前お付き合いをさせていただいておりました……和田という者ですが……」
「おおお、それはそれは。まあ、お入りくださいまし。お上がりくださいまし……あなた……」
と言ううちに老婆は、古ぼけた畳の上を、まるで赤ん坊のようにペタペタと這いながら奥へと引っ込んでいきました。
その背中を見送りながら考え込んでいた私は、やがて思い切って格子戸を開けました。
家の中は、二畳の玄関と、一坪ほどの台所と便所、そして八畳の座敷に押し入れと床の間があるという、古ぼけた長屋のようなガラクタ造りでしたが、家具らしいものはほとんど見当たりません。
座敷は両側とも雨戸が閉め切られ、蚊帳(かや)が部屋いっぱいに吊るされているので、化物屋敷のように薄暗い上に、足を踏み入れた途端、カビ臭いような、小便臭いような臭気がムッとして漂ってきました。
しかし老婆は暗闇に慣れているのか、平気な様子で蚊帳の裾を這いながら、縁側から台所の方へと回っていきました。
私もそのあとから、蚊帳をかき分けかき分けして、雨戸の内側の板張りの縁側に出ました。そのついでに蚊帳の中を覗いてみると、寝床が三つ敷いてあり、床の間の前に括(くく)り枕が一つ、台所側に高枕が二つ並べてあります。
その高枕と括り枕との間に、新しいメリンスの小さな布団と、赤い枕がキチンと置いてあるのは、どうやら赤ん坊の寝床のようでした。
夫婦と老婆が寝ていたものとも思われますが、妻は亡くなっているはずなのに、寝床が三つあるのは妙な話です。
しかも役場の戸籍には妻の死亡が届け出られているだけで、赤ん坊のことは一言も書かれていないのに……あの鯉のぼり……この小さな新しい布団……おまけに今は真昼間ではないですか……。
私は身動きが取れなくなったような気持ちで、帽子を持ったまま縁側にうずくまりました。
真昼だというのに、そんな気は少しもしません。
雨戸から漏れる光線が月光のように白く見えて、ヒッソリとした静けさが体に迫ってきます。
今にも突然、老婆が「ワアッ」と叫んで振り返ったら……などと、あられもないことを考えているうちに、台所に首を突っ込んでゴソゴソやっていた老婆が、片手に茶碗を持ちながらヨタヨタと這い戻ってきました。
「へい……冷たいお茶を一つ……おあてもの(お茶請け)もございませんで……あなた……」
「……やっ……どうもありがとう……どうぞお構いなく……」
と大きな声で言いながら、私は仕方なく板張りに座り込みました。
老婆も私と差し向かいに座りましたが、痩せ枯れた白い手で襟元を直し、蓬々(ほうほう)と逆立った髪を撫で上げました。

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