初級翻訳・良寛物語 手毬と鉢の子 第35話

新美 南吉

もう気が咎めて、寝てなんかいられないんだ」
そう言うと、武助さんは外の明るい月夜の中へ飛び出していきました。村は静まり返り、どこかで藁を打つ音が響いているばかりです。

武助さんは一人で船に乗り込み、立てかけてあった棹(さお)を抜きました。船は川の真ん中へと進んでいきました。
「こりゃ、冷たいだろうな」
と独り言を言って、しばらく水面を見つめていましたが、やがて「どぶうん!」と武助さんは飛び込みました。
水面の月の光が乱され、やがてだんだんと静まっていくと、しばらくの間、鏡のような水面には誰も乗っていない小舟だけが浮かんでいました。しかし、すぐに武助さんがぽかりと河童のように頭を出し、船の方へ向かって勢いよく泳ぎました。
船に上がると、武助さんはぶるっと体を震わせて着物を絞り、
「これで、少しは気持ちが楽になった。だが、あの坊さんは不意を突かれたんだし、泳ぎも知らなかったはずだから、さぞ苦しかったに違いない。すまねえ、すまねえ」
と呟きました。

良寛さんは、戸を叩く音で目を覚ましました。まだ真夜中です。外は月夜らしく、戸の節穴から青白い光が差し込んでいます。
「こんばんは、こんばんは」
と外で誰かが呼んでいます。
「誰じゃな、こんな時間に。泥棒さんかのう」
「そうじゃねえだ。昼間の船頭ですだ。ここを開けてくれ!」
「ほほう、泥棒さんかと思ったら船頭さんか」
良寛さんは戸を開け、船頭を中に入れてやりました。すると船頭は、良寛さんの足元にばったりと平伏したので、良寛さんはびっくりしました。
「すみませんでしただ、お坊さん。すみませんでしただ。この通りですだ。何とぞお許しくだせえ」
船頭は額を地面に擦り付けました。良寛さんは慌てて言いました。
「お前さんは一体、どうしたんじゃ。赤鬼が桃太郎に降参したような格好をして……一体これは、どういうことなのじゃ?」
武助さんは、舟をわざと揺すって良寛さんを川に落としたことを話しました。良寛さんが怒りもせず、かえってお礼を言ったので、それからというもの、気が咎めてならなかったことを話しました。寝ようとしても眠れず、妻が止めるのも聞かずに謝りに来たことを話しました。せめてもの罪滅ぼしにと、川の真中で水に飛び込み、びしょ濡れになって来たことも話しました。
「うんうん、そうだったのか。いやいや、お前さんは感心な人じゃ。まあ、上がっておいで。炉に火をくべるから着物を乾かして、今夜はわしのところで泊まっていくがいい」
良寛さんは船頭を部屋に上げ、炉に柴を入れました。
「そんなにして来んでもよかったのに。わしは、お前さんに助けてもらえたことで、喜んでおるのだよ」
「お坊さん、あんたは本当に心のええ人だ。あの人たちが言っていたことは、みんな本当だったんだ……」「同じ人間に生まれても、わしは、あんたに比べると、なんて心が悪く、ひねくれた人間なのでしょうか。
わしは、他人様が右と言えば左、左と言えば右と言う。
――へそ曲がりな性格でございます。
わしの心は腐っております」

「いやいや、そんなことはない。
人間には誰にでも、よい心と悪い心と、二つずつあるものだよ。
なるほどお前さんが、他人の言うことに何でも逆らってみたくなるのは悪い心だが、今夜お前さんが、自分の行いを恥じて眠れなかったのは、それはよい心じゃ。
お前さんは本心はええ人じゃ。
うわっつらが少しばかり悪いだけじゃ。
わしら人間はのう、悪い心を抑えて、ええ心を伸ばしてゆけばよい。
わしはそう思う」

武助さんは、うなずきながら聞いていました。
――本当に、このお坊さんの言う通りだ。
これから自分は、よい人間にならねばならぬ。そう思ったのでした。

十七 菫(すみれ)

良寛さんは、年をとるにつれて、人々から尊敬されるようになりました。
みんなは良寛さんを偉いお方だと思いました。
べつだん良寛さんは、人が驚くような大きな仕事をしたわけではありませんでした。
良寛さんの偉さは地味で、目立たなかったのです。
ちょうど目に見えないほど細い糸で、しみじみと降る春雨のように。
春雨は土を黒く潤し、草や木を芽吹かせてやります。
良寛さんの人柄も、その周囲の人々の心を潤し、うわついていた心をしっとりと落ち着かせ、知らぬ間に希望と喜びの芽を吹かせるという風なのです。
世間で偉いと言われている人々の中には、なるほど固い意志の力を持って大きな仕事を成し遂げはするが、人間らしさを持たないという人も、いないわけではありません。
しかし良寛さんは、そんな人とは違っていました。
良寛さんは、飽くまで人間らしさを失わなかったのです。

ある日、良寛さんは野中の一本道を歩いていました。
久しぶりに親しくしている家へ訪ねていったのに、あいにく留守だったので、もう行く先のあてもなく、ぶらりぶらりと歩いていたのです。
空には一つの白く膨らんだ雲が流れていました。
野には良寛さん、ただ一人の姿が見えました。
他に何もありませんでした。
春風が軽く吹いていました。
遠くにちらちら光るものがありました。
草の葉や水でした。
良寛さんは、ぼんやりして歩いていました。
すると、頭にふと一つのことが浮かんで来たのです。
「お金を道で拾うと大変嬉しいものだ」と、いつか誰かから聞いていたことでした。
それを思い出すと良寛さんは、早速実験してみたくなりました。
幸い、あたりには誰もいません。
良寛さんは鉢の子の中から、さっきお百姓さんの家でもらったお小遣いを取り出して、道の上に投げました。
そして拾いました。
「なァんだ、ちっとも嬉しくない」
と独り言を言いました。
実際、少しも嬉しくはなかったのです。
――もう一遍やってみよう。
今度はもう少し遠くへ投げました。
お金は石ころに当たって、チャリンとひっくり返りました。
良寛さんはまたそれを拾い上げました。
「なァんだ、ちっとも嬉しくないじゃないか」

――これはやり方がまずいのかもしれない、もう一遍やってみよう。
今度はもっと遠くへ投げました。
同時に自分の目を閉じました。
チャリンと音がしました。
それからそっと目を開けて見ました。
「おや」
お金はどこかへ隠れてしまいました。
もう道の上には見えません。
良寛さんは、お金の落ちたあたりへ走っていきました。
そして探しまわりました。
お金はなかなか見つかりません。
「こいつはしまった」
良寛さんは頭をかきながら、草の中を探しまわりました。
そのうちに、とうとうお金は見つかりました。
小さい紫の花をつけている菫の葉の下に、それは隠れていたのです。
「なァんだ、菫めが隠していたのか」
そう言いながら、良寛さんは、お金をまたもとの鉢の子の中に収めました。
これで実験は済みました。
そしてその結果、人々が「道で銭を拾うと嬉しい」と言うことは、確かに本当であると、良寛さんに分かったのです。
「いや、全くだ。全く本当だ」
――それにしても、わしは何故こんな野原の真中で、こんなことをしているのだろう。
良寛さんは、雲を見てちょっと考えましたが、分かりませんでした。
それから鉢を傍に置くと、今度は菫の花を摘み始めました。
まずお金をその葉の下に隠した菫を摘みました。

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