初級翻訳・蝶の絵 第6話

久生 十蘭

 日本へ帰る途中、シンガポールやハイフォン(海防)で南方の風景に心を奪われ、マレーを皮切りに、ジャワ、スマトラ、フィリピンと、日本人の経営するゴム園やサイザルの栽培地で絵を買ってもらいながら、二十年近くの間、気ままに暮らしていたのだ。
 正義感にあふれ、心優しく、終戦当時はシンガポールで戦犯や引き揚げてくる同胞の世話をしていたということだったが、人から勧められて、南方で描きためた絵の個展を開くことになり、忙しそうにしていた。
「会場は決まったのか?」
「やっとのことで、日仏画廊にねじ込んでもらったんだが、そうしたら急に怖気づいてしまってねえ」
「いつ頃やるんだ?」
「早ければ、二月の初めだな……。
それで今日、ちょっと頼みがあってやってきたんだ。
デ・ヴィゴという男は、フィリピンのネグロス島で大きな砂糖工場をやっていた大金持ちなんだが、その長女のリーナという娘が、山川を追いかけてきて、いま東京にいるんだよ」
「須田とも話していたんだが、そんな娘がいるらしいということは聞いていたよ。
噂は本当だったんだね」
「山川は、部隊の副官のくせに、親比島(しんひとう)派のリーダーみたいなことをやっていたものだから、知識階級や上流の家庭ですごくウケがいいんだ」「マリポサこと津村宇太郎なんかとデ・ヴィゴ邸へ出入して、家族同様に待遇されていたんだが、デ・ヴィゴは、ネグロス島のゲリラを指揮した嫌疑で四十何人の大家族が、ひとりのこらず憲兵に虐殺されてしまった」
「いつか話していた『蝶』というのは、津村のことだったのか」
「そうなんだよ……山川は、その一ヵ月ほど前、パナイ島のナンチケへ転出したが、リーナは山川のあとを追って、ナンチケへ行っていたので助かった……それ以来、山川の配属が変るたびについてまわって、終戦当時は、スマトラで同棲していたんだそうだ」
 山川がニューギニアに行っていたというのは嘘なので、終戦後、間もなく復員した。
リーナのほうは、山川の愛の誓いを信じ、ジャワの花嫁、百何人かにまじって日本へたどりつき、神戸の田辺の寮をぬけだして、一人で東京へやってきた。
山川は、母がどうの、姉がどうのと、煮えきらないことばかりいい、約束を履行しないので、リーナが山川の母に逢いに行ったら、お帰りになるなら、旅費は、当方で負担いたしますと、五千円だしたというのである。
「いまのレートでは、十一弗とすこし……それで、どこへ帰れというのか知らないが、リーナ君は、帰るにも帰れないような事情になっている。
ネグロス島では、日本人一般に、和ぎえない怨恨を持っていて、親日的な傾向のあるものは、誰によらず、射ち殺してしまうんだそうだ……リーナ君は、国も郷里も捨てて、山川に殉じたわけなんだが、これはもう明白な裏切なんだから、帰ったら命がない。
そういう悲境のさなかに、秋がかって、急に寒くなったもんだから、馴れない気候にやられて、倒れてしまった。
いま三鷹の施療ベッドにいるが、絵にも描けないような惨状なんでね」
 と、しょんぼりした。
「土浦の花嫁寮に、ジャワからおれの知人の娘がきている。
それに紹介されたというだけの関係にすぎないが、見すごしにできないので、山川に掛合いに行ったら、同棲していたことは事実だが、いつまでも変らないという約束はしていない。
飽きるということもあり得るのだから、将来のことは約束できないと、最初に、ちゃんといってあるという堂々たる返事だ……それで、君だってリーナ君の事情を知らないわけじゃあるまい。
そっちはそれでいいだろうが、飽きたからって、なんの保証もなしに、こんなところで放りだされたら、相手はたまったもんじゃなかろうと、説いてきかせたが、そんなに気の毒だと思うなら、君がなんとかしてやれァいいじゃないかというフテくされかたで、話にもなにもなりゃしないんだ」
「山川家の憲法では、じぶんら一家の平和と幸福のためなら、他人にどれほど犠牲を要求してもかまわないことになっている。
じぶんらの生活を固く守って、それ以外のものは、一切、認めない。
都合が悪いときは、箴言まで担ぎだして、一歩も譲らないってんだ。
身勝手で、訳がわからないのは山川家の法なんだから、君なんかの歯のたつ相手じゃない。
そんなところへ出かけて行くほうが幼稚なんだ」
 そんなことをいっているうちに、むやみに腹が立ってきて、煙草の味がわからなくなった。
四

 三鷹の駅から、土堤について行く。
雑木林の繁った両岸の間を、流れの早い川が走っている。
土堤の大きな木は栗と桜で、いくらかはまだ葉が残っている。
笹と松のほかは、みな紅葉し、赤と黄と紅の諧調が、たえず変化する水紋にうつって美しかった。
枯れ薄に埋もれた横長の建物の玄関を入ると、長い廊下が左へ延び、その端の部屋にリーナという娘がいた。
薄っぺらな木綿布団を敷いたカンヴァスベッドに腰を掛け、窓のほうへ向いてなにかやっていたが、ドアの開いた音をきくと、すらりとした上背をみせて立ちあがった。
窓からさす、初冬の午後の余光を横顔に受け、青い大きな眼で、こちらを見ていたが、息ぎれがするらしく、細っそりした手を窓枠にかけて身体を支えながら、そろそろとまた腰をおろした。
年齢はいくつなのか、まだ子供子供し、束の間の盛りを見せる脆い花といった、ものやさしさで、線の細いエッチングか素描でも見ているような清楚な印象を受けた。
不運な人間が、些細な変化にも、すぐ不幸を予想するように、岩城といっしょに来た、見馴れぬ男に不安を感じているふうだったが、岩城が紹介を終えると、目ざましいほど昂奮して、
「お近づきになれて、うれしい」
 と、母音のひびくラテン訛の英語で挨拶し、こんなところまでよく来てくれたと、息を切らしながら、いくどもくりかえした。
「リーナ君、今日の訪問の目的は、君の要求を聞いて、山川をギュッといわせるためなんだから、考えていることを、ありったけぶちまけてくれるほうがいいね。間もなく、いい病院へ移れるようにするが、差当って、必要なものはないか」
 リーナという娘は、眼を伏せると、
「足りないものは、なにもありません」
 と細々とした声でいった。
悲しそうにきこえたので、泣いているのかと思ったら、天使のような顔にうかんでいるのは、あどけない、自然な表情だけだった。
「それが、いけないんだよ。
内縁関係といっても、事実上の妻なんだからこんな扱いをされていいことはない。
本来なら、家庭裁判へ持ちだすほうが手っとり早いんだが、それをしないでいてやるんだ」
「でも、あたしもう山川さんを恨んではいません」
「君がそんなことをいいだすと、われわれは、なにもしてあげられなくなる」
「このあいだ、山川さんから手紙をもらって、よくわかりました。

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