)あいつらには、先生のいつも仰しやる「恕」とか、「己の欲せざるところを人に施してはならない」とかいうことが、恐らく、こんな時にだけ役に立つのだ。
そんな皮肉な考えが、自然に彼の頭に浮んで来る。
そして、そのあげくには、孔子だって、本音を洗って見たら、どんなものだか知れたものではない、といったようなことまで考える。
(そういえば、先生も、もうそろそろ一ヵ月ちかくも顔を見せられない。
考えて見ると、自分の顔全体が変にくずれ出したのは、この前お会いしたころからのことだ。
いよいよ先生も逃げ腰だな。
――
「冬になって見ると、どれがほんとうの常磐樹だかわかる。ふだんは、どの木も一様に青い色をしているが。」
などと、よく先生は鹿爪らしい顔をして云っておられたものだが、さて先生ご自身は、果してその常磐樹といえるかな。
聖人と云われるほどの人の正体も、今度という今度は、はっきりわかるわけだ。
それも、自分がこんな病気になったお蔭かも知れない。)
伯牛は、眉も睫毛もない、むくんだ顔を、気味わるくゆがめて、皮肉な笑いをもらしたが、笑ったあとで、たまらなく不愉快な気持になった。
何だか、孔子という人間一人の化の皮をはぐために、自分が犠牲にでもなっているような気がしてならなかったのである。
(孔子一人のために、これまでも、われわれはどれほど苦しんで来たことだろう。
それに、こんな病気にまでなって、その正体を見究めなければならないのか。
孔子という人間は、それほど人に犠牲を要求する価値のある人間なのか。)
彼は、そんな飛んでもないことまで考えて、まるで気でも狂ったようになっていた。
「先生がお見舞い下さいました。」
と、その時、だしぬけに召使いが戸口に立って云った。
伯牛はぎくりとした。
そして、悪夢からさめたあとのように、しばらく天井を凝視した。
それから、急にあわてて、一たんは臥床の上に起きあがったが、すぐまた横になって、頭からすっぽりと夜着をかぶってしまった。
夜着は肩のあたりでかすかにふるえていた。
「こちらにお通しいたしましても、よろしうございましょうか。」
召使いは、一歩臥床に近づきながら云った。
返事がない。
召使いは、しばらく首をかしげて思案していたが、独りで何かうなずきながら、そのまま部屋を出て、しずかに戸をしめた。
五六分が過ぎた。
その間伯牛は、夜着の下でふるえつづけていた。
すると、だしぬけに窓の外から孔子の声がきこえた。
「伯牛、わしは強いてお前の顔を見ようとはいわぬ。せめて声だけでも聞きたいと思って、久々でやって来たのじゃ。」
「…………」
「このごろ工合はどうじゃ。やはりすぐれないかの。だが、心だけは安らかに持つがいい。心が安らかでないのは、君子の恥じゃ。」
「先生、お……お……お許しを願います。」
伯牛は、むせぶように夜着の中から云った。
「いや、そのままで結構じゃ。お前の気持は、わしにもよくわかる。人に不快な思いをさせまいとするその気持は、正しいとさえ云えるのじゃ。しかし、……」
と、孔子は一寸間をおいて、
「万一にも、お前がその病気を恥じて、顔をかくしているとすると、それは正しいとは云えない。お前の病気は天命じゃ。天命は天命のままに受取って、しずかに忍従するところに道がある。しかも、それこそ大きな道じゃ。そして、その道を歩む者のみが、真に、知仁勇の徳を完成して、惑いも、憂いも、懼れもない心境を開拓することが出来るのじゃ。」
伯牛は嗚咽した。
その声は、窓のそとに立っている孔子の耳にも、はっきり聞えた。
「伯牛、手をお出し。」
孔子は、そういって、自分の右手を、窓からぐっと突き入れた。
彼の顔は、窓枠の上にかくれて、内側からはちっとも見えない。
伯牛の、象の皮膚のようにざらざらした手が、怯えるように、夜着の中からそろそろとのぞき出た。
孔子の手は、いつの間にか、それをしっかりと握っていた。
夜着の中からは、ふたたび絶え入るような嗚咽の声がきこえた。
「伯牛、おたがいに世を終るのも、そう遠くはあるまい。くれぐれも心を安らかに持ちたいものじゃ。」
孔子は、そういって、伯牛の手を放すと、しずかに歩をうつして門外に出た。
そして、いくたびか従者をかえりみて嘆息した。
「天命じゃ。天命じゃ。しかし、あれほどの人物が、こんな病気にかかるとは、何というむごたらしいことだろう。」
伯牛が、雨にぬれた毒茸のような顔を、そっと夜着から出したのは、それから小半時もたってからのことであった。
彼は、全身ににじんだ汗を、用心深く拭きとりながら、臥床の上に坐った。
悔恨の心の底に、何か知ら、すがすがしいものが流れているのを、彼は感じていた。「朝に道を聞けば夕に死んでも悔いない。」といった、曾ての孔子の意義ふかい言葉が、しみじみと思い出された。
(永遠は現在の一瞬にある。
刻下に道に生きる心こそ、生死を乗りこえて永遠に生きる心なのだ。)
彼はそう思った。
(天命、――そうだ。
一切は天命だ。
病める者も、健やかなる者も、おしなべて一つの大いなる天命に抱かれて生きている。
天は全一だ。
天の心には自他の区別はない。
況んや悪意をやだ。
天はただその歩むべき道をひたすらに歩むのだ。
そして、この天命を深く噛みしめる者のみが、刻下に道に生きることが出来るのだ。)
彼は、孔子の心を、今こそはっきりと知ることが出来た。
そして、さっき孔子に握りしめられた自分の手を、いつまでもいつまでも、見つめていた。
彼の心は無限に静かで、明るかった。
彼にはもう、自分の肉体の醜さを恥じる気持など、微塵も残っていなかった。
彼は、いつ死んでもいいような気にすらなって、恍惚として褥の上に坐っていた。
1 子曰く、我に陳蔡に従いし者は、皆門に及ばざるなり。
徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語には宰我(さいが)・子貢、政治には冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)、文学には子游・子夏と。
(先進篇)
2 子曰く、三軍も師を奪うべきなり。
匹夫も志を奪うべからざるなりと。
(子罕篇)
3 子貢問いて曰く、一言にして終身これを行うべき者ありやと。
子曰く、其れ恕か、己の欲せざる所は人に施すこと勿れと。
(衛靈公篇)
4 子曰く、歳寒くして然る後に、松柏の後れて凋むを知るなりと。
(子罕篇)
5 子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れずと。
(子罕篇)
6 子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なりと。
(里仁篇)
志を言う
顔淵|季路侍す。
子曰く、盍ぞ各|爾の志を言わざると。
子路曰く、願わくは車馬衣|軽裘、朋友と共にし、之を敝りて憾無からんと。
顔淵曰く、願わくは善に伐ることなく、労を施いにすること無からんと。
子路曰く、願わくは子の志を聞かんと。
子曰く、老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けんと。
――公冶長篇――
ある日の夕方、孔子は、多くの門人たちが帰ったあとで、顔淵と子路の二人を相手に、うちくつろいで話していた。
孔子は顔淵をこの上もなく愛していた。
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