初級翻訳・次郎物語 第6話

下村 湖人

次郎は闇の中に目を凝らしながら、道の端っこにしゃがみ込みました。
「次郎、次郎や、どこにいるの?」
次郎は息を殺しました。
そして、逃げ出すなら今だと思いました。
しかし、彼は立ち上がりませんでした。
それは、お民がすぐそばに立っているからというだけではありませんでした。
彼は、お浜のことを思い浮かべてみても、いつものように心が熱くなることはなかったのです。
彼は真っ暗な中に、ぽつんと寂しくしゃがんでいました。
「次郎や、次郎ったら!」
お民の声は、妙に恐ろしく響きました。
恐怖と怒りが混ざり合ったような声でした。
それでも次郎は身じろぎもせず、お民の口から漏れる荒い息遣いにじっと耳を澄ましていました。
そのうちに二人の目は、だんだんと闇に慣れてきました。
お民は中腰で地面を探っていましたが、次郎を見つけると恐ろしい勢いで飛びついてきました。
その衝撃で、次郎の持っていた提灯は地面に押しつけられ、ひしゃげてしまいそうになりました。
「なんてずうずうしい子なんだろう……さあ、提灯をおよこし!」
お民はひったくるように提灯を取り上げると、中に手を突っ込んでマッチを取り出しました。
ぱっと灯ったマッチの火に照らされたお民の顔は、気味悪くこわばっていました。
どこかで、煩悩鷺(ほんのうさぎ)が「ほうほう」と鳴きました。
提灯に火を灯し終えると、お民は次郎の手をわしづかみにして、引きずるように歩き出しました。
その足取りはやけに速く、次郎は何度も転びそうになりながらも、息を切らして必死についていきました。
草履の音と下駄の音が、騒がしく混ざり合います。
村に入ると、お民の足取りは急に落ち着きました。
同時に、握っていた次郎の手を放しました。
村といっても、一本道の場末のようなところで、駄菓子屋、豆腐屋、散髪屋、鍛冶屋、薬屋、肴屋などが曲がりくねり、でこぼこに続いています。
その間には種油を搾る家が何軒もあり、前を通ると香ばしい匂いが鼻を突きました。
どの家からも、蚊遣りの煙がもうもうと立ち上っています。
次郎は、その煙が自分の汗ばんだ顔にまとわりつくようで、息苦しく感じました。
家並みが途切れると、また百メートルほどの闇が続きました。
寺の墓地です。
墓地の一部が、道に直接面していました。
古い石塔が、提灯の火に照らされて煙のようにぼんやりと浮かんでいます。
次郎はこれまで、お浜に連れられて夜ここを通るときは、非常に怖い場所だと思っていました。しかし、今日はそんな気配をちっとも感じませんでした。
むしろ、どこかほっとしたような気分にさえなりました。
そして、この墓地を通り過ぎて明るい場所に出れば、間もなく自分が連れて行かれる家があるのだと思うと、彼はいつまでも暗いところにじっとしていたいと願いました。
彼は急に、ぴたりと足を止めました。
「おやっ?」
暗い場所に来て再び足取りを急かしていたお民は、次郎の草履の音が急に聞こえなくなったので、驚いて振り返りました。
「どうしたというんだい?」
彼女は提灯を差し上げて闇を透かしました。
しかし、次郎はすでに道に近い大きな石塔の陰に身を潜めていたため、お民はどこにも彼の姿を見つけることができませんでした。
「次……次郎っ!」
お民は半ば枯れた声でそう叫びながら、提灯を掲げて一メートルほどの範囲を行ったり来たりしました。
しかし、墓地の中に入って探そうとは決してしませんでした。
次郎は石塔の陰から、じっとその様子を見守っていました。
やがて提灯の火は、ぶかぶかと闇の中を揺れながら遠ざかり、百メートルほど先の明るい家並みの中に消えていきました。
次郎の心はしーんとなりました。
同時に、蚊がぶんぶんと自分の体のまわりにたかってくるのを感じました。
しかし、これからどうしていいのか、少しも見当がつきませんでした。
彼の心からは、すべての人間が消え失せてしまい、どこへ向かえばいいのか、その目当てさえもなくなっていたのです。彼は墓石に腰をおろしたまま、じっと闇を見つめていました。
十分あまりの時間が、蚊のうなり声の中で過ぎていきました。
「もう逃げて行ったかもしれないが、ちょっとそこいらを見ておくれ」
お民の声です。
「この中をですか。まさか子供一人で……」
直吉の声のようです。
「でも、いやに押しの強い子供だから、居るかもしれないよ」
「そうでしょうか」
どしんどしんと足音がして、提灯の火が次郎の目の前にゆらゆらとやってきました。
「あっ、居たっ」
一間ほど離れたところで、提灯はぴたりと止まりました。
相手はなかなか近寄ろうとしません。声の主は確かに直吉です。顔はよく見えません。
「居たら、引っぱり出したらいいじゃないかね」
お民の声が、鋭く道から響いてきます。
「次郎さん、そんなことをして、馬鹿だね」
直吉はおずおずと寄ってきて、次郎の手をとりました。
それからあと、次郎は何が何やらわからなくなりました。
彼はお民と直吉に両手を握られて、ぐんぐんと明るいほうへ引っぱられていきました。
彼が我に返り、自分の周囲を見まわすことができたのは、広い座敷の真ん中に座らされて、先生のような態度をしたお民から、さんざん説教をされている時でした。

五 寝小便

お民は存分に説教をしたあと、少しばかりの駄菓子を紙に包んで、次郎の手に握らせました。
それは彼女の教育的見地からしたことでした。
しかし、次郎は決してそれを口にしませんでした。
彼が寝床に入ったあとでも、その紙包みは、ぽつんと部屋の真ん中に置かれたままでした。
お民の右側に恭一、左側に俊三が寝ました。
次郎の寝床は俊三の隣に並べて敷かれてありました。
次郎は永いこと眠れませんでした。
そのうちに、そろそろ小便を催してきました。
お浜の家では、寝る前にはきっと便所に行く習慣でしたが、今夜はいろいろと事情がちがっていたために、ついそれを怠っていたのです。
彼は苦しくなるにつれて、多少それを悔いました。
しかし、起き上がって便所に行く気にはなれません。
ここの便所は廊下づたいで少し遠すぎるし、それに、どこかで鼠がかさこそと音を立てていて気味が悪いのです。
そのうちに、彼はふと妙なことを思いつきました。
そしてぱっちりと目を開けて、母の方を覗いて見ました。
蚊帳の中は真っ暗で見えませんが、よく寝ているようです。
彼は寝返りをするふりをして俊三によりそいました。
そして永いことこらえていた小便を、その脇腹のあたりに少しずつ出してしまいました。
放射が終わるとまたもとの位置にかえって、心地よくぐっすりと眠ってしまいました。
どのくらい眠ったのかはっきりしませんでしたが、彼は、だしぬけにお民に両足を掴まれて蚊帳の外に引き出されたので、目がさめました。
部屋の中はまだ真っ暗でした。
彼はさかさにつり下げられているような気がして、目を覚ました瞬間は、まるで世界の見当がつきませんでした。
「何という情ない子だろう。もう六つにもなって」
同時に彼の腰から下が、どたりと畳の上に落ちました。
右足のくるぶしのあたりが、ちょうど敷居の上だったらしく、ごつんと音がして、かなり強い痛みを覚えました。

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