しかし彼は、父親と息子が争い合うような悲惨な戦いに、自分の力を少しでも貸すことなど絶対に嫌だったのだ。
次の日、彼は急いで衞の国を去った。
それから宋に行き、陳に行き、蔡に行き、葉に行き、そしてまた蔡へと引き返した。
しかし、彼の期待は行く先々でことごとく裏切られた。
彼は正しい道を世に伝えるどころか、行く先々の場所で、迫害や嘲笑をもって迎えられなければならなかったのである。
特に、陳と蔡の国境のあたりで、孔子の一行が味わった苦難は、彼の人生の中で最も大きな苦しみのひとつとなった。
その頃、陳の国は呉の国から攻められていて、楚の国に助けを求めていた。
楚の昭王は、陳を助けるために軍隊を城父というところまで進めていたが、その時、孔子の一行が陳と蔡の国境にいることを知った。
そこで、すぐに使いの者をやって、孔子を楚の国へ招こうとしたのであった。孔子は、楚の国にはまだ一度も行ったことがなかったし、それに昭王はなかなかの人物らしいという評判もあったので、すぐその誘いに応じて出発することにしたのだ。
これを聞いてひどく驚いたのは、陳と蔡(ちん・さい)の国の大夫(たいふ=偉い役人たち)であった。
彼らは自分たちの国で孔子を重用しなかったが、それは孔子の偉大さを知らなかったからでは決してなかった。
むしろ、その素晴らしさをよく知っていたからこそ、なんだか煙たくて、自分たちの思い通りに利用することができなかったのである。
彼らはこう考えた。
(孔子は何といっても素晴らしい賢者だ。
彼の言うことは、いつも見事に諸侯(王様たち)の政治の弱点をついている。
ことに、彼が陳と蔡の間をうろつき出すようになってからもう随分になるし、われわれのずるいやり口は、何もかも彼に見すかされているに違いない。
もし楚のような大きな国が、彼をあたたかく迎えて真面目に政治をやり出すようなことになったら、陳や蔡の国にとっては将来ものすごい大きな脅威だ。
われわれの偉そうな地位だって、結局どうなってしまうか分かったもんじゃないぞ!)
そこで両国の大夫たちは、ひそかに相談し合い、お互いの国から一隊ずつ私服の兵士(便衣隊=べんいたい)を出して、孔子の一行をすっかり包囲させてしまったのだ。
もちろん、孔子の一行に、そんな大軍を力ずくで打ち破るだけの武力などあるはずもなかった。
お供の弟子たちの中には、怒りでカーッとなり、いきり立つ者も二、三人いたが、孔子はみんなのその無謀な行動をしっかりと戒め、ただ静かに敵の包囲が解けるのを待つことにした。
しかし、その包囲は、なかなか容易に解けなかった。
幸いなことに、一行に危害を直接加えるような乱暴な風は少しも吹かなかったが、ただ本当に困ったのは、食べ物がすっかりなくなってしまったことだった。
一日や二日ならどうにかやり過ごすことができた。
三日目、四日目も、薄いお粥くらいは何とかすすることができた。
しかし五日目になって、粟(あわ)の一粒すらお鍋に残らない状態になると、さすがに弟子たちの多くは、飢えと激しい疲れとでへとへとになり、ぐったりと草むらに寝そべって動けなくなってしまった。
孔子自身も、もちろんお腹はペコペコで辛かった。
しかし、彼は顔に少しばかりやつれた色は見せながらも、少しも慌てず騒がせず、落ち着き払って(自若として)学問や正しい道を説くことを決して忘れなかった。
たまには、琴を弾き、美しい声を合わせて歌うことさえあったのだ。
普段はとても元気な子路は、さすがにいつでも孔子のすぐ近くに寄り添い、万が一の危険を警戒していた。
だが、彼の心は決して穏やかではなかった。
彼は、こんな一大事という時に、先生である孔子がまったく何の対策も立てずにのんびりしているのが、腹立たしくてたまらなかったのだ。
(もうすぐみんな飢え死にしそうだって言うのに、道が何だっていうんだ!
音楽が何だっていうんだ!
そんなものは、完全にに行き詰まったあげくの、自分への嘘っぱち(自己欺瞞)でしかないじゃないか!)
彼はそんな苦しいことを心の中で考えながら、うらめしそうな目で、孔子の横顔をじろじろと見つめるのであった。
五日目の夜が次第に更けていき、そろそろ夜明けも近くなってきた。
初秋の夜空には、星がとても美しくきらめいていたが、地上の草むらの中では、生きるか死ぬかのすれすれのところで、わずかに息をしている人間たちの黒い体が、いくつも不格好にゴロゴロと転がっていた。
そして、そのあちこちから、苦しそうにうなような声さえ時々聞こえてくるのであった。
「先生……!」
と、子路のかすれた声が、突然暗闇の中に響き渡った。
孔子は、ずっと長い間何かを深く心の中で考え込んでいたが、さすがに疲れたらしく、ちょうど横になろうとしたところだった。
しかし、子路の必死な声を耳にすると、横になるのをピタッとやめ、しずかにその方向へ振り返った。
すると、子路がぶっきらぼうに言った。
「立派な君子であっても、こんなふうにどうしようもなく行き詰まってしまうということがあるものなのでしょうか?」
「行き詰まる、だって?」
孔子はちょっと考え込んだ。
しかし、すぐに穏やかな声で答えた。
「それはもちろん、君子だって行き詰まることはあるさ。
しかしな、君子はどんなに追い詰められても、絶対に心まで乱れたりはしないものだ。
心が乱れたりしないからこそ、その中にちゃーんとまた新しい道が開けてくるのじゃ。
これとは反対に、心の小さい小人(しょうじん)というものは、行き詰まると必ずやけを起こして悪いことをして心を乱してしまう。
心が乱れてしまったら、もうそこには絶対に道なんて残されていない。
それこそが本当の『行き詰まり』というものなのじゃよ。」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、二、三メートルほど離れたところでうずくまっていた一つの黒い影が、むっくりと起き上がった。
そして、少しフラフラとよろめきながら、孔子のすぐ目の前までやって来た。
それは子貢(しこう)だった。
彼はその場にドスンと腰を下ろすと、疲れて荒くなった息をハーハーと弾ませながら、暗闇の中でじっと孔子の顔を見つめた。
「おお、子貢か。」
孔子は本当にいとおしそうに、優しく声をかけた。
しかし、子貢は何一つ言葉を発しなかった。
彼は、普段から無作法な口を利かない利口な男であるだけに、心の底では子路以上の激しい不平不満の炎をメラメラと燃え上がらせていたのだ。
その顔には、何ともいえない皮肉なうすら笑いさえ浮かんでいるように見えた。
孔子は真っ暗な闇をとおして、子貢のその冷たい気持ちをはっきりと感じ取ることができた。
「子貢、お前は……わしが自分の期待をすっかり裏切ったと思っているようだね。」
子貢はそれでもやっぱり黙ったままであった。
ただ彼の荒い息づかいだけが、ますます激しくはずむばかりであった。
「お前は、わしがあらゆる学問をたくさん修めていて、どんな大変な場面にぶつかっても、そこからうまく抜け出すためのたくさんの手口を知っている人間だと思っていたのだね。
初級翻訳・論語物語 第41話
下村 湖人
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