彼はしかし、まだ目がさめないふりをして、そのまま動かずにいました。
しばらく沈黙がつづきました。
「まあ、あきれた子だね」
お民は平手で、三つ四つ彼の臀を叩きました。
それでも彼は、小豚の死骸のように転がったままでいました。
そのうちに燈火がぱっと灯りました。
瞼を透してくる赤い光線の刺激で、おのずと眉間にしわが寄ります。
「ううーん」
次郎は寝返りをうつ格好をして、光線をよけました。
「次郎、お前、寝たふりをする気かい。……よろしい。いつまでもそうしておいで」
お民は、燈火をつけ放しにしたまま、そう言って蚊帳の中に入りました。
あたりがしいんとなります。
蚊のうなり声が、急に次郎の耳につき出しました。
と思うと、もう体じゅうがちくりちくりとやられています。
お民は、まだきっと蚊帳の中から自分を覗いているにちがいありません。
――そう思うと、自由に動くわけにもいきません。
彼はつらかったけれど辛抱しました。
そのうちに彼はまた一つの知恵を授かりました。
それは、寝返りをうつ真似をしてだんだんと蚊帳の中にころがり込むことでした。
彼は蚊帳に近づくまでは、かなり巧みにそれを実行しました。
しかし、いざ蚊帳の裾をまくるという段になって彼は当惑しました。
あまり手を使いすぎると、目覚めていることがバレてしまいそうです。
彼はまず頭の方から入る計画を立てました。
しかし、何度転んでみても、いつも頭が蚊帳の裾に乗っかってしまい、うまくいきません。
そこで、今度は足の方から入ることにしました。
これも容易には成功しませんでしたが、それでも頭ほどに不便ではありませんでした。
それは、下駄をはく時の要領で、うまく足指を使うことができたからです。
こうして、ともかくも、彼は腰のあたりまで蚊帳の中に入ることができました。蚊の攻撃から完全に逃れるためには、あと少しの努力が必要なだけでした。
彼はそのチャンスを狙って、一息つきながら、そっと目を開けて母の様子をうかがいました。
するとどうでしょう。蚊帳の内側では、母がきちんと座り、皿のような目をしてじっと自分の方を見つめているではありませんか。
次郎は、もうこれ以上動いてはならないと悟りました。
実は、母に見られているという自覚があったからこそ、あのような工夫をして蚊帳に入ろうとしたのですが、これほどまともに見つめられているとは、夢にも思っていませんでした。
しかし、そんな間にも、蚊は容赦なく彼の上半身を襲い、彼の我慢強さを試してきます。
彼はそのたびに、思わず芋虫のように体を左右にくねらせました。
そして最後には、ついに両手を使って、一気に蚊帳の裾を頭の方へ引っ張り上げました。
「次郎や」
その時、気味悪いくらいに落ち着いた母の声が、彼の耳に響きました。
「お前、誰にそんな芸当を教わったの」
次郎は返事をするかわりに、わざとらしく軽い寝息を立ててみせました。
「次郎ったら」
母の声が急に鋭くなりました。
次郎はビクッとしましたが、今さらどうすることもできません。
すると次の瞬間、お民の指が彼の耳たぶをつかみ、再び彼を蚊帳の外へと引きずり出しました。
次郎はかつて、直吉の耳たぶに自分の全身の重みを預けようとしたことがありました。
しかし、自分自身の耳たぶに自分の体を預けるという経験は、これが初めてのことです。
彼は思わず悲鳴を上げました。
両手でとっさに母の手を掴んだので、耳たぶの痛みはいくらか和らぎましたが、その代わり、やすやすと蚊帳の外へ引きずり出されてしまったのです。
「そこに夜通し、そうしていなさい」
母は荒い息を吐きながら、寝床に入りました。
次郎の目からは、ぼろぼろと涙がこぼれました。
しかし彼は、喉の奥からこみ上げてくる泣き声を、じっと噛み殺しました。
そしてついに夜が明けるまで、蚊に刺されながら、蚊帳の外を芋虫のように転げ回っていたのでした。
六 飯びつ
「ご飯だよ」
翌朝、次郎がぽつんと人気のない座敷の縁側に腰を下ろし、庭石を見つめていた時、台所の方から母の声が聞こえました。
しかし、彼は動きませんでした。
その声が自分を呼んでいるようには聞こえなかったし、仮に呼んでいたとしても、そんな遠くからの呼び声に応じて出て行くのが変な気がしたからです。
やがて家中の者が茶の間に集まったらしく、話し声が賑やかになり、茶碗が触れ合う音や、鍋をこする音などが聞こえてきました。
次郎は、誰かが気づいて自分を呼びに来るのを心待ちにしていました。
しかし、たとえ呼びに来たとしても、すぐに飛びついて行くような姿は見せたくないと思っていました。
ところが、十分経っても、二十分経っても、誰も彼を呼びには来ません。
そのうちに、恭一と俊三が、すでに食事を済ませたのか、口の端を手でこすりながら彼の方に走ってきました。
「ご飯、どうして食べないの?」
恭一は次郎のそばまで来ると尋ねました。
次郎は庭の方を見たまま、振り向こうともしませんでした。
「ご飯食べない、ばかあ――」
俊三の声です。
次郎はそれでも黙っていました。
すると俊三はちょこちょこと近寄ってきて、後ろから片手を次郎の肩にかけ、その耳元で、
「馬鹿やあい」
と言いました。
次郎は、いきなり右の肘で俊三を突き飛ばしました。
俊三はよろよろと縁側をよろめき、敷居につまずいて、座敷の畳の上に仰向けに倒れました。
彼の泣き声が、家中に響き渡りました。
お民が出てきて、恭一に言いました。
「どうしたの?」
「次郎ちゃんが突き倒したんだい」
「次郎が? どうして?」
「僕知らないよ」
恭一は神経質そうに、お民と次郎とを見比べながら答えました。
お民はしばらく次郎を後ろからじっと睨みつけていましたが、何を思ったのか、そのまま俊三を抱き起こして茶の間の方へ行ってしまいました。
恭一もすぐその後について行きました。
次郎はまた一人、ぽつんと庭を眺めていました。
そのうちに、彼は昨夜の寝不足のため、うつらうつらとし始めました。
そしてついに縁側から地面に滑り落ちてしまいました。
幸い、大した痛みは感じませんでした。
彼は起き上がってあたりを見回しましたが、誰もいなかったので安心しました。
そして裸足のまま植え込みを抜け、隣家との境になっている孟宗竹の藪に入ると、そのままごろりと寝転びました。
そこで彼は涼しい風に吹かれながら、ぐっすりと眠り込みました。
目が覚めたのは昼過ぎでした。
お腹がげっそりと減っています。
それに何よりも、喉が渇いてたまらないほどでした。
彼は起き上がると、八方に目を配りながら、座敷の縁側に忍び寄りました。
そして縁板に足の汚れをこすりつけてから、足音を立てないように茶の間の方へ行きました。
そこには、誰もいませんでした。もう昼食が終わったあとらしく、ちゃぶ台の上には薬罐(やかん)と飯櫃(めしびつ)だけが残されていて、ハエが五、六匹静かにとまっています。
彼はあたりを見回してから、薬罐の口に直接口をつけて、冷えた渋茶をがぶがぶと飲みました。
それから飯櫃の蓋をとり、いきなりその中に手を突っ込んだのです。
「誰だい」
出し抜けに台所からお民の声が聞こえました。
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