」
しかし孔子は、ますます真面目な顔をして言った。
「そうか、これがいまどきの觚か。
……いや、これは觚ではない。
觚などではない。」
門人は困惑した。
彼は一生懸命に弁明するように言った。
「でも、どこの家でも今ではこの型のものを使っていますよ。
第一、角のある觚なんて、お店に売っていませんから。」
「ふむ、売っていないのか。
しかし、これは觚ではない。
觚ではないのだ。
まったく嘆かわしいことだ。」
孔子は首を振った。
それから目を閉じて、また考えはじめた。
門人はますますわけが分からなくなった。
彼は、おずおずと、孔子の前に並んでいる觚を箱に重ねはじめた。
すると孔子は、急にやさしい声で言った。
「まあ、座りなさい。
觚はそのままでいい。」
門人が腰を下ろすと、孔子は静かに話し出した。
「どんなものであれ、そのものの本当の特質や本質を失ってしまうのは、よくないことだ。
そこにこそ、世の中の道理が乱れていく元凶があるのだ。」」
門人は、孔子が何を考えていたかが、やっとわかって、急にいずまいを正した。
「1人間には人間の特質がある。
その特質を守るところに人間の道があるのじゃ。
とりわけ中庸の徳は至高至善のもので、それを忘れたら、名は人間であっても、人間の実があるとは云えない。
」
ここで孔子は、ふたたび、自分の前に並んでいる觚を、まじまじと見つめた。
そして、いかにも思い入ったように云った。
「名実相伴わない世の中になって、もう久しいものじゃのう。
」
門人は、ただうなずくより仕方がなかった。
「いや、これはつい繰言になってしまった。
……では、あちらに行ってお休み、ご苦労であった。
」
孔子はそう云って、窓の方に立って行った。
門人もすぐ立上ったが、觚をどう始末したものか、しばらく迷った。
そして、きまり悪そうに孔子に訊ねた。
「では、この觚は店に戻すことにいたしましょうか。
」
孔子は、急に声を立てて笑いながら、門人をふりかえった。
「いや、それはそれでいい。
觚は酒を注ぐための道具じや。
酒さえ注げれば、稜があろうと無かろうと、構うことはない。
箱に入れて、あちらにしまって置いてくれ。
」
門人は、いくたびか首をかしげながら、觚を箱に納めて室を出た。
1 子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな、民鮮(すくな)きこと久しと。
(雍也篇)
申※の慾
子曰く、吾未だ剛なる者を見ずと。
或ひと対えて曰く、申※ありと。
子曰く、※や慾あり。
焉んぞ剛なるを得んと。
――公冶長篇――
孔子は、大丈夫だと思っていた門人たちが、一旦官途につくと、とかく毅然としたところがなくなって、権臣たちと妥協しがちになるのを、もどかしく思っていた。
で、このごろ門人たちの顔さえ見ると、
「剛い人間がいない、剛い人間がいない。
」
といって、歎いてばかりいる。
多くの門人たちには、それが不思議でならなかった。
仁者とか、知者とか、中庸の徳を具えた人とかいうのならとにかく、単に剛いというだけのことなら、いくらもそんな人がいるはずだ、と思った。
誰の頭にも、その第一人者として、すぐ子路が思い出されるのだった。
また、若い門人のうちでなら、申※という元気者もいた。
申※は、まだ二十歳を二つ三つしか越していないが、毛むくじゃらな顔に、大きな眼玉を光らしていた。
議論になると、破鐘のような声を出して相手を圧倒する。
負けぎらいで、先輩だろうと何だろうと遠慮はしない。
どうかすると、その頑丈な肩を聳かして、腕づくで来い、と云わぬばかりの恰好をすることがある。
大ていの門人たちは、彼には弱らされた。
孔子ですら手こずることがしばしばあった。
若い門人たちは、弱らされながらも、彼を痛快がった。
彼等は、多くの先輩たちが、孔子の前に出るといやに遠慮がちで、云いたいことも云えないでいるくせに、若い門人に対すると、とかく高飛車に出たがるのが、気に喰わなかった。
その先輩たちを相手に、申※はいつも思う存分のことを云ってのける。
時には無茶だと思われるようなことまでいうのだが、彼等としては、いつも自分たちの代辯でもして貰っているような気がして、愉快にならざるを得ない。
その意味で、彼は彼等仲間の人気者であり、相当に尊敬されてもいた。
そして、誰いうとなく、
(剛いと云えば、何といっても申※だ。
先輩の子路だって及ぶところではない。
)
というのが、彼等仲間の定評になってしまっていた。
で、ある日、彼等のうち数名の者が孔子の室で教をうけていたおり、例によって孔子が、「剛い人間がいない。
」という話をし出すと、待っていたと云わぬばかりに、一人が云った。
「申※は如何でしょう。
」
孔子はけげんな顔をしてしばらく彼等の顔を見ていた。
そして憐むような眼をしながら答えた。
「申※には慾がある。
」
門人たちは変な答えだと思った。
第一、申※が慾ぶかな人間だとは思えない。
むしろ、金なんかに冷淡すぎるほど冷淡なのが、彼の持前である。
彼は、金を貯めることの上手な子貢に対して、反感さえ抱いている。
むろん、顔回ほどに貧富に超越しているとは云えないだろうが、それでも、孔子に慾があると云われるような人物でないことは、たしかである。
また、かりに慾の深い人間であるとしても、剛い人間であることだけは、断じて間違いがない。
それは彼の日常が証明していることだし、現に孔子だって、申※の頑張りには手こずっているくらいなのだから。
彼等はそんなことを考えた。
で、一人がすぐ反駁するように云った。
「先生、申※に慾があるとは、少しおひどいと思います。
」
孔子は微笑した。
「ひどいと思うのか。
じゃが、わしは申※こそ誰よりも慾のきつい男じゃと思っている。門人たちは、呆れたような顔をして孔子を見た。
孔子は云った。
「金銭が欲しいばかりが慾ではない。
慾はさまざまの形であらわれる。
申※が負嫌いで我執が強いのもその一つじゃ。
慾というのは、理非の弁えもなく、人に克とうとする私心を指していうのじゃ。
天理に従って金を貯めるのは慾ではない。
これに反して、かりに金には冷淡でも、私情にかられて人と争えば、それはまさしく慾というものじゃ。
申※は慾がきつい。
あんなに慾がきつくては、剛いとは云えまい。
」
門人たちは、慾というものがそんなものなら、なるほど申※は慾がきついにちがいない、と思った。
しかし、なぜ彼を剛いと云えないのかは、まだはっきりしなかった。
で、不思議そうな顔をして、孔子を見守った。
「わからぬかの。
」
と、孔子は歎息するように云った。
「剛いというのは、人に克つことではなくて、己に克つことじゃ。
素直に天理に従って、どんな難儀な目にあっても、安らかな心を持ちつづけることじゃ。
」
門人たちは、一せいに頭を下げた。
すると孔子は笑いながら云った。
「しかし、お前たちはまだまだ申※に学ぶがいい。
申※があんなに頑張るのも、金や権勢のためではなくて、天理を求めるためなのだから。
」
門人たちは、きわどいところで、自分たちの急所をつかれたような気がした。
彼等はいくたびかお互に顔を見合せた。
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