志の従わざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みずと。
(里仁篇)
9 子貢問う。
師と商とは孰れか賢(まさ)れると。
子曰く、師や過ぎたり、商や及ばずと。
曰く、然らば則ち師愈(まさ)れるかと。
子曰く、過ぎたるは猶お及ばざるがごとしと。
(先進篇)
楽長と孔子の眼
子、魯の大師に楽を語げて曰く、楽は其れ知るべきなり。
始めて作すとき翕如たり。
之を従てば純如たり。
※如たり。
繹如たり。
以て成ると。
――八※篇――
魯の楽長(がくちょう=音楽の責任者)は、演奏の式場から自分の控室に戻ると、少しやけくそになりながら窮屈な式服を脱ぎ捨てて、椅子にもたれかかりました。
彼は自分の心を落ち着かせようとして、その芸術家らしい青白い頬に、無理やり作り笑いを浮かべてみたり、両足をテーブルの上に投げ出してわざとだらしない格好をしてみたりしましたが、そんなことでは彼の気持ちはちっとも晴れませんでした。
(演奏の失敗が、これでもう三度目だ……)
そう思うと、彼の心臓は、一滴の血も残されていないかのように冷たくなりました。
彼がこんなにも惨めな失敗をくりかえすようになったのは、不思議なことに、孔子が国の最高幹部である「司空(しくう)」の役職について、自分の上に立つようになってからのことでした。
孔子は、これまでの司空とはちがって非常に部下思いの人であり、めったに怒った顔など見せたこともないのですが、どういうわけか、いざ音楽の演奏となると、楽長の手がにぶってしまうのです。
もちろん孔子は、音楽の道についても非常に深く知っている人だから、楽長としても彼を甘く見るわけにはいきません。
しかし、だからといって緊張して手が固くなっているのだとは、楽長自身も思っていませんでした。
(なるほど、孔子は音楽の理論には詳しいかもしれない。
しかし、実際に楽器を手に持って演奏する技術にかけては、どう考えても自分の方がプロの玄人だ)
彼はそう自信を持っていたのです。
それにもかかわらず、なぜこうも頻繁に失敗してしまうのでしょうか。
腹も立ちます。恥ずかしくもあります。
しかし、失敗したという事実はどうしようもありません。
彼は両手の指を自分の髪の毛にぐっと突き刺して、テーブルの上に顔を伏せました。
自分の情けなさが、たまらなく悔しく思えてきます。
そしてその感情は、やがて孔子に対する激しい恨みにすら変わり始めていました。
彼はハッとそれに気づき、驚いて顔を上げました。そして、その嫌な気持ちを追い払おうと、彼は両手を胸の前で大きく振りました。
その瞬間、彼は自分の目の前を、一筋の光が横切るような感覚を覚えました。
それは孔子の目の光でした。
湖のようにどこまでも静かで、それでいてかすかに微笑みが宿っている、あの孔子の目の輝きです。
彼は、ふと何か心当たりでもできたかのように、思わず立ち上がりました。
(そうだ、あの目だ!)
と、彼は心の中で叫びました。
(あの目にぶつかると、俺は喉も手も急にこわばってくるような気がするんだ。
今日もたしかにそうだった。
俺の手が狂い出したのは、音楽を演奏している最中に孔子の目とぶつかってからのことだ。)
彼は部屋の中を行ったり来たりと歩き回りながら、しきりに首をかしげました。
しかし、しばらく歩き続けているうちに、だんだんそんな自分がばかばかしく思えてきました。
(孔子の目が、俺の音楽の出来栄えを左右するなんて、そんなおかしなことがあるものか。)
彼はいまいましいといった様子で、窓からペッと唾を吐き出し、青空を仰ぎ見ました。
するとそこには、先ほどと同じように、ちらりと孔子の目が浮かんでいるように見えたのです。
相変わらず優しく微笑んでいる、あの深く澄んだ目でした。
(やっぱり、あの目だ。)
彼は、消えてしまった孔子の目を追い求めるように、何もない青空をいつまでもじっと見つめ続けていました。
「司空様がお呼びでございます。」
いつの間に入ってきたのか、一人の小姓が彼のすぐ背後からそう声をかけました。
彼は返事をする代わりに、まるでぜんまいじかけの人形のようにテーブルのほうへと歩み寄り、せかせかと身なりを整えました。
彼は、孔子の部屋に入るまで、まるで夢の中にいるような心地でした。
中に入ってみると、しんと静まり返った部屋の薄暗い奥で、ピシッとまっすぐに座っている孔子の姿が目に入り、そこでようやく正気を取り戻しました。
自分が呼び出された理由をはっきりと意識したのも、まさにその時でした。
しかし、彼はもう慌てふためくことも、怖がることもありませんでした。
むしろ、そのピリッとした引き締まった空気の中に、彼は不思議とホッとするような安らぎすら感じることができたのです。
そして、彼はもう一度、
(やっぱり、あの目だ。)
と心の中でくり返しました。
孔子は楽長を席に座らせると、少しだけ体をゆるめて言いました。
「どうじゃ、今日のことをよく反省してみたかね?」
楽長は、自分がしでかした今日の失敗については一切触れられず、いきなりそんな風に問いかけられたものだから、かえって返答に困ってしまいました。
「これほどの腕前がありながら、しかも懸命に努力しているのに、同じ失敗を三度もくり返すからには、君の心の中に何か大きな根本的な欠陥があるに違いない。
自分で思い当たる節はないのかね?」
「実に恥ずかしい限りですが、まったく思い当たりません。」
「じっくりと考えてはみたのか?」
「それはもう、何度も失敗していますから、私としても考えずにはいられません。」
「はっきりと形にはならなくても、何か心に引っかかることがあるだろう。」
「それはあります。しかし、それがどうも、あまりにもばかばかしく思えまして……。」
「案外、ばかばかしいことではないかもしれん。思い切ってはっきりと言ってみたらどうかな。」
「そうはいましましても……」
「やはり言えないか。だが、わしにはちゃんと分かっているぞ。」
「はっ?」
「遠慮せずに言うと、君にはまだ『邪心(よこしまな心)』があるようだな。」
楽長は「邪心」と言われたものだから、ぎょっとして驚きました。
さっき心の中で孔子をうらやましくも憎らしく思った気持ちを、もう見抜かれてしまったのだろうかと疑ったのです。
しかし孔子はそんなことは気にとめる様子もなく、続けました。
「詩であれ音楽であれ、その究極のところは『無邪(余計な下心がないこと)』の一言につきる。
無邪気ささえあれば、下手は下手なりに、心のこもった本当の詩ができあがり、まことの音楽が奏でられるものなのじゃ。
この誰もが知る当たり前の真理が、君にはまだ身についていない。
腕前は確かなのに、実に惜しいことだな。」
楽長は、もう黙っていることができなくなりました。
「先生、たしかに私は今日の失敗について、どういうわけか、ちょっとばかり先生を恨みたくなるような気持ちにもなりました。
それは本当に恥ずかしいことだと思っています。
しかし、音楽を演奏している最中に、私に邪心などあったとは、どうしても思えません。
私は今度こそ絶対に失敗しないようにと、それこそ一生懸命に打ち込んでいたのですから。」
「なるほどねえ……。
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