初級翻訳・論語物語 第16話

下村 湖人

自分は真に何を知っているのか、また何を知らないのか、それらをつつましい心で十分に反省して、知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする、そうした自他を偽らない至純な気持になってこそ、知は進むのだ。要するに、知は他人に示すためのものではない。それは自分の生命を向上せしむる力なのだ。そしてまことの知は、ただ遜る者のみに与えられる。このことをいつまでも忘れないでいて貰いたい。」

孔子の顔は、そこで急にやさしくなった。そしてうなだれている子路を、いかにも労わるような眼で見やりながら、
「それさえ覚えていて貰えば、わしはもうお前に何もいうことはない。お前はその勇気――自他ともに許しているその勇気を、これからは、お前自身の心の中の敵に向けさえすればいいのだ。遜る勇気、敬しむ勇気、――どうだ、子路、何とも云えない、いい響きをもった言葉ではないか。この言葉をくりかえしているだけでも、わしは、私の眼の前に、深い、明るい、しかも力強い世界が現われて来るような気がしてならないのだ。」

子路の睫毛には、その時、かすかに光るものが宿っていた。
孔子は、子路が帰ったあと、永いこと默想にふけった。そして、翌日からの大廟における彼は、従来の儀式の誤った点を正し、欠けたところを補い、終日謹厳そのもののような姿をして、祭官たちを指揮していた。

一 子曰く、学んで思わずば則ち罔(くら)し。思うて学ばずば則ち殆(あやう)しと。(為政篇)
二 子曰く、吾甞て終日食わず、終夜寝ねず、以て思う。益無し。学ぶに如かざるなりと。(衛霊公篇)

豚を贈られた孔子

陽貨、孔子を見んと欲す。孔子|見えず。孔子に豚を帰る。孔子其の亡きを時として、往きて之を拝す。諸に塗に遇う。「ちょっと待て、お前も私と一緒に話さないか」
陽貨はそう言って、孔子に話しかけた。
陽貨はこう続けた。
「自分の宝物を心の内にしまい込みながら、自分の国を迷わせるような者は、仁の心を持っていると言えるだろうか?」
孔子は答えた。
「いいえ、そんな者は仁とは言えません」
陽貨はさらに尋ねた。
「政治や仕事を行うことを好みながらも、大切な時機を何度も逃してしまうような者は、知恵があると言えるだろうか?」
孔子は答えた。
「いいえ、そんな者を知者とは言えません」
そして陽貨は言った。
「日月は飛ぶように過ぎ去り、歳月は私たちを待ってくれないものだ」
これを聞いて、孔子は言った。
「分かりました、私はまもなく仕官いたしましょう」
――陽貨篇――

「なに? 陽貨からの贈り物じゃと?」
孔子は、自分の目の前に台の上にのせて置かれた大きな豚の蒸し肉を眺めて、眉をひそめた。
陽貨は、魯の大夫である季平子に仕えていたが、季平子が死んで季桓子の代になると、巧みに彼を自分の言いなりにし、ついには彼を拘禁して、魯の国政をほしいままにしていたのだ。
孔子は、その頃すでに五十の坂を越えており、国中が誰も彼も正しい道から外れているのを嘆いて、仕官の望みを完全に断ち、ひたすら『詩書礼楽』の研究と、若い弟子たちの教育とに全力を注いでいた。
陽貨としては、孔子が野にあって、厳然として正しい道を説いているのが、何よりも恐ろしかった。
だから、できれば彼を自分の味方に引き入れたい、すくなくとも一度彼に会って、自分が賢者をちゃんと遇する器の大きい人間であることを示しておきたい、と思っていたのだ。
彼は使いを遣わして、何度も孔子に面会を申し込んだ。
しかし、孔子は頑としてそれに応じなかった。
応じれば応じないほど、陽貨としては不安を感じるのだった。
そこで彼はついに一つの策を思いつき、わざわざ孔子の留守を狙って、豚の蒸し肉を贈ることにしたのである。
礼の決まりでは、大夫が士に物を贈った際、その士が不在で直接使者と応対できなかった場合には、士は翌日その大夫の家に出向き、自らお礼の言葉を述べなければならないことになっている。
陽貨はまさにそこを狙ったわけであった。
さすがに、孔子もちょっと当惑した。
彼はしばらく豚肉をじっと睨んだまま考え込んだ。
(礼の決まりに背くわけにはいかない。しかし、道徳に外れた悪人に招かれて、たとえ一日たりとも彼の厚意を受けるのは、気高い士の道ではない。ましてや、相手の策略にうまく利用されるような事があればなおさらだ)
孔子は抜かりなく考えを巡らせた。
そしてついに一つの作戦を思いついた。
それは、相手が自分に使った作戦を、そのままそっくり相手にやり返すことだった。
つまり、陽貨の留守を見計らって、お礼の言葉を述べに行こうというのである。
もともと孔子はユーモリストではなかった。
だから彼は、大真面目にそんなことを思いついたのだ。
しかし、思いついてみると、なんだかとてもおかしく思えてきた。
彼は思わずふっと微笑んだ。
同時に、なんとなく自分の普段の気高い生き方にはふさわしくないような気がしはじめた。
たしかに自分の普段の信念に照らし合わせれば、それは決して気持ちのいい作戦とは言えなかったのである。
そこに気がつくと、彼はもう笑わなくなった。
そして、ゆっくりと、もう一度考え直した。
しかし、これ以上に良い考えは、どうしても浮かんこなかった。
(最善の策が見つからないなら、次善の策を選ぶよりほかに仕方がない)
そう決心した彼は、翌朝人をやって、こっそりと陽貨の家の方の様子をうかがわせた。
使者の報告にもとづいて、孔子が陽貨の家を訪れたのは、お昼の近いころだった。
すべては予定どおりにうまく運んだ。
彼は留守番の者にしっかり挨拶の言葉をことづけて、安心して帰路についた。
ところが、どうしたことか、その帰り道で、ばったりと陽貨の馬車に出くわしてしまったのである。
一人の士たる者が、高官の馬車を見て、こそこそとネズミのように逃げ出すわけにもいかない。
孔子はしかたなしに、まっすぐに自分の車を走らせた。
陽貨は目ざとく彼を見つけて呼びとめた。
そして、にやにやしながらこう言った。
「おそらく私の方にお越しであろうと存じまして、急いで帰って来たところです。ほんのちょっとすれ違いでおくれてしまい、申しわけありません」
孔子は、小賢しい策略を弄するような相手には、到底かなわないと思った。
彼はもう観念して、言われるがままに、再び陽貨の家へと引き返した。
しかし、どんなことがあっても、ここで昼ご飯をごちそうになるのだけは絶対にすまい、と心の中で固く決心した。
陽貨は、席につくと、いかにも熱意のこもったような口調で話し始めた。
「比類のない素晴らしい徳を身に体していながら、国の乱れるのをただ傍観しているのは、果たして本当の仁の道にかなうでしょうか?」
孔子は、陽貨も言葉だけはなかなか立派なことを言うものだ、いまさら別に逆らう必要もあるまい、と思った。
そこで即座に答えた。
「いかにも、それは仁とは言えません」
陽貨は「これはうまくいった」と思った。
そこで、すかさず二の矢を放った。

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