初級翻訳・論語物語 第23話

下村 湖人

ただ、いつも『正義』の道に寄り添って行動するだけである」(『論語』里仁篇より)

6 孔子には、次の四つの「ない」がありました。
一つ、自分の勝手な「思い込み」をしない。
二つ、こうでなければならないという「頑固さ」を持たない。
三つ、融通がきかない「かたくなさ」を持たない。
四つ、自分中心の「我(エゴ)」を持たない(『論語』子罕篇より)

7 孔子が言いました。「君子は、人の良いところをさらに立派に育て上げ、人の悪いところを強調したり大きくしたりしない。しかし、心の狭い人間(小人)は、その反対のことをする」(『論語』顔淵篇より)

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知られざるエピソードを探る

 陳亢(ちんこう)という門人が、孔子の息子である伯魚(はくぎょ)に尋ねました。
「あなたのお父上から、私たちとは違う、ここだけの特別な教えを直接聞いたことがありますか?」
伯魚は首を横に振って答えました。「いいえ、ありません。あるとき、父がひとりで庭に立っていたときのことです。私(鯉)が小走りで庭を通り過ぎようとすると、父はこう言いました。『お前は、詩の勉強をしたか?』
私は『まだです』と答えました。すると父は『詩を学んでいなければ、人と立派に会話をすることができないよ』と言いました。
私はびっくりして、すぐにその場から下がって、一生懸命に詩の勉強をしました。
また別のある日、父がひとりで庭に立っていたときのことです。私がまた小走りで庭を通り過ぎようとすると、父はこう言いました。『お前は、礼儀作法を学んだか?』
私は『まだでございます』と答えました。すると父は『礼儀を学んでいなければ、社会の中で正しく立つことができないよ』と言いました。
私はあわてて引き下がり、それから礼儀作法をしっかり学びました。
私が父から直接聞いたのは、だいたいこの二つの教えくらいです」
 これを聞いた陳亢は大喜びして、心の中でこうつぶやきました。
「一を聞いて三を知るとは、まさにこのことだ! 詩の大切さも、礼儀の大切さも知ることができた。おまけに、君子である父親が、自分の息子(伯魚)を特別扱いせず、あえて厳しく遠ざけて育てるという素晴らしい教育の秘密まで知ることができたぞ!」
――『論語』季氏篇より――

 陳亢は、字を子禽(しきん)と言いました。
彼は、孔子の教えを直接受けたいと願い、はるばる陳の国から魯の国へとやって来たのです。しかし、そこにはすでにたくさんの弟子たちがうようよと集まっており、彼のような年齢の若い新参者が、個人的に直接孔子とゆっくりお話しする機会など、めったにありませんでした。
そのため彼は、ふだんは先輩である高弟の子貢(しこう)のところに弟子入りし、その指導を受けながら、孔子の一言一行を、何とか間接的にでも知りたいと、いつも心を配っていたのです。
そんなある日、彼は子貢に対して、ちょっと変わった質問をしてみました。
「あなたは、孔先生に対して、自分の意見を曲げてまで弟子の礼儀を尽くしていらっしゃいますが……どうも私には、あなたの方が孔先生よりも賢いお方のように思えてなりませんのですが?」
 この質問は、彼が純粋に「孔子という人物の本当のすごさを知りたい」という一念から出たものではありましたが、同時に、彼の偽らざる本音でもあったのです。
というのも、彼がたまに耳にする孔子の言葉は、次のようなものだったからです。
「1 自分は生まれながらにして何でも知っているような天才ではない。いにしえの聖人たちの素晴らしい教えが大好きで、ただひたすらに、熱心に、飽きることなくそれを求め続けている人間なのだ」とか、
「2 自分の徳がまだまだ十分に修まっていないこと、学問の研究がもっと深められないこと、正義の教えを聞きながらそれを自分の行動に移せないこと、そして自分の不完全なところを改めることができないこと……これらが、私の毎日の大きな悩みであり、憂いなのだ」とか、また、
「3 口を極めて理を説くのではなく、黙々と物事の道理をよく理解し、どれほど学んでも決して嫌にならず、人に教えるときも決してうんざりしない――そんな人間になることは、決して簡単なことではないのだ」――といったものだったからです。自分はその中の一つでも出来てはいないようだ。」とか、そういった地味なことばかり言っているのに比べて、子貢のいかにも華やかで、てきぱきとした弁舌が、彼の心に眩しく映っていたからである。
しかし、この質問に対しては、子貢もさすがにきっとなって答えた。
「君子は軽率に物を言ってはならない。一言で知者ともされ、不知者ともされるのだから。私が孔夫子に及ばないのは、ちょうど梯子(はしご)で天に昇ることができないのも同じだ。もし孔夫子が志を得られて、一国を治める地位にでも立たれたら、それこそ古語に言う『これを立てればここに立ち、これを導けばここに行い、これをやすんじればここに来り、これを動かせばここに和らぐ。その生や栄え、その死や悲しむ』とある通り、人々の暮らしも豊かに、道義も行われ、人民は従い合って平和を楽しみ、孔夫子が生きていられる間はその政治を謳歌し、亡くなられるとまるで自分の父母に別れたかのように深く悲しむだろう。そうした力が私などにあろうはずがない。比較されただけでも、耳がつぶれそうだ。」
 陳亢には、それでまだ孔子の人物がはっきりとは分からなかった。
彼は、またある時尋ねた。
「孔夫子はどこの国に行かれても、必ずその国の政治に何かの形で関与されるようですが、それは孔夫子が自らお求めになってのことでしょうか、それとも君主の方からその機会を与えられてのことでしょうか。」
 こう尋ねた陳亢の腹の底には、孔子は案外、手柄を立てたいという気持ち(功名心)の強い人なのではなかろうか、どこの国に行ってもその地位が長く続かないのも、あるいはそのためであるかもしれない、という考えがあった。
それに対して子貢は答えた。
「孔夫子の容貌や言動には、温・良・恭・倹・譲(おだやか、すなお、うやうやしい、つつましい、ゆずりあう)の五つの徳が、自然とあふれている。各国の君主はそれに接すると、自然と政治のことを尋ねずにはいられなくなるのだ。だから、多くの人が、媚びたりへつらったりして、高い官位を求めるのとは全く違っている。いわば自分の『徳』に引き寄せられて求められているのだ。孔夫子が自分の徳を発揮することのできない国では、決してその地位に恋々とされないわけも、それではっきりするだろう。」
 陳亢は、自分がこっそり憧れている(私淑している)子貢の口から、しばしばそんな話を聞いているうちに、少しずつ孔子という人が分かってくるような気がした。
同時に彼は、孔子にしみじみと接する機会がめったに得られないのを、いっそう残念に思わずにはいられなかった。
何よりも困ったことに、彼が子貢に対して孔子の人物を尋ねた時の様子でも分かるように、彼はいくぶん疑い深い性質であった。
そうひどくひねくれているというほどでもなかったが、物事をちょっと悪く解釈して見る癖が、何かにつけて顔を出すのであった。
(自分は新参者だから、そして魯の国の人間ではないから、いい加減にあしらわれているのではないだろうか。

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