一体こういう時こそ、遠くからやって来た新参者にこそ、もっと優しく親切であってもいいはずなのだが……。そういえば、孔夫子が『目に入れても痛くないほど』可愛がっている顔回をはじめ、子路、閔子騫、冉伯牛といった連中は、みんな魯の生まれだ。自分の最も尊敬している子貢は、顔回や子路ほど孔夫子に可愛がられていないそうだが、もしかしたら彼が衛の国の人間だからではないだろうか……)
そこまで深刻というほどではなかったが、彼はつい、そんなことまで考えてしまうのだった。
そして、そうした考えのあとに、ふと彼の頭に浮かんできたのが伯魚(はくぎょ)であった。
(伯魚は孔夫子のたった一人の息子だ。孔夫子はふだん彼を、他の弟子たちと同じように扱っているように見えるが、それはおそらく表面だけのことに違いない。陰ではきっと、他の弟子たちには教えていない特別な教えを、彼だけに教えているに違いない。孔夫子だって、自分の息子が他の弟子以上になるのを好まないわけはないのだから……)
しかし、この考えは彼の気持ちを必ずしも不愉快にはさせなかった。なぜなら、それと同時に、彼は伯魚に近づくことによって、他の弟子たちには決して手に入らないような素晴らしい教えがもらえるのではないかと考えたからである。
彼はまるで大いなる発見でもしたかのように、にやりと笑った。
そして、それ以来、伯魚の姿を見かけさえすれば、すぐそのそばに寄っていって話しかけようと努力した。
もっとも、二人の話を他の弟子たちに聞かれるのをあまり好まなかったので、なるべく人目につかないように工夫することを忘わなかった。
ところが、彼のこうしたせっかくの苦心も、結局は大した効果を生み出さないようだった。
それは、伯魚がもともと無口だったせいばかりではなく、たまたま何か話し出したとしても、大して珍しいことは言わず、孔子の特別な教えだと思われるような言葉はほとんど聞かれなかったからである。
(やっぱり、子貢の方のほうが、孔子よりも偉いのではないかな……)
彼はときどき、そんなふうに考えることがあった。そして、それは同時に、自分と伯魚とを心の中で比べてみることでもあったのである。(しかし伯魚も、まったくのバカというわけではなさそうだから、もしかすると孔子の特別な教えだけは、人に隠して自分だけの秘密にしているのかもしれない。)
そう考えると、やはりあまりいい気持ちはしなかった。
そこで彼はある日、孔子の家の庭を伯魚と並んで歩きながら、ついに思い切って尋ねてみた。
「あなたは先生のご子息でいらっしゃいますし、常にそばに控えていらっしゃるからには、ふつうの弟子たちにはとても伺うことのできない、素晴らしいお話を聞いていらっしゃることと存じます。もし差し支えがなければ、私のような新参者のために、その教えの一部だけでも教えていただけないでしょうか。」
「いや、実は私も、まだこれといって特別なものは……」
と、伯魚はしばらく考えてから答えた。
「そうですね、強いて言うならば、かつてこんなことがありました。
ちょうど父がひとりでゆっくりしている時、私が小走りで庭を通りますと、『お前は詩経を学んだか』と声をかけられたのです。
『まだです』と答えますと、『詩経を学ばなければ、人と立派に会話をすることができないぞ』と叱られました。
私が詩経を学び始めたのは、まさにその時以来のことです。」
「なるほど。」
「それから何日か経ってからのことでした。
ちょうど前と同じように、父がひとりでいる前を通りますと、今度は『お前は礼を学んだか』と尋ねられたのです。
しかたがないので『まだです』と答えますと、『礼を学ばなければ、世の中に立って人と交わっていくことができないぞ』と叱られました。
それで私も、ぽつぽつと礼を学ぶことになったというわけなのです。」
「なるほど。」
「父から特別に教わったことと言えば、まずこの二つくらいなものでしょう。
その他のことについては、あなた方とちっとも変わらない扱いを受けています。
それはご存じの通りですが……」
「なるほど。」
陳亢は、満足したような、あるいは失望したような顔をして、しきりに「なるほど」と言いながら、ふと向こうを見た。
すると、孔子がひとりで杖をつきながら、こちらへ歩いてくるのが見えた。
何かの研究が一段落して、少し頭を休めに出てきたところらしかった。
ふたりは孔子に近づくと、その場で立ち止まって丁寧にお辞儀をした。
孔子はにこにこしながら言った。
「さっきからふたりで仲良く歩き回っているようじゃが、よほど気が合うとみえるのう。」
陳亢は、自分が伯魚と親しい間柄だと孔子に思われたことが、たまらなく嬉しかった。
しかし彼は黙って伯魚の方を見た。
伯魚が答えた。
「最近、とくに仲良くさせていただいております。
いろいろと教えていただけますので、非常に楽しく過ごしております。」
「ふむ。
それはいいことだ。若いうちは、友達同士で互いに切磋琢磨するのが何よりだからな。
私もきょうは、ひとつその仲間入りをさせてもらおうかな。」
そう言いながら孔子は歩き出し、ふたりもその後につづいた。
(なんと恵まれた日だろう。)
陳亢はそう思い、胸をわくわくさせた。
「ところで――」
と、孔子は歩きながら切り出した。
「ふたりが仲良くするのは良いことだが、そのために友人を選ぶ基準がかたよってはいけないぞ。
君子は公平無私で、広く天下のすべての人を友とするものだ。
小人はこれに反して、自分の好き嫌いや打算だけで付き合う。
だから、どうしても交友関係がかたよってしまうのだ。
ただかたよるだけならまだしも、それでは本当の心の交流はできない。
真の交わりとは、道義をもって貫くべきものなのだ。」
陳亢のわくわくしていた胸は、一瞬にして凍りつきそうになった。
「いや、しかし――」
と、孔子はふたりを振り返り、
「私は、いまのふたりの交わりを小人の交わりだと言っているわけではない。
ただ、ふとうまく思いついたことを言ってみたまでのことじゃよ。」
陳亢はほっと胸をなで下ろしたが、心の底には、どこか苦いものがこびりついて、なかなか消えなかった。
「それにしても、私が途中で割って入ってしまってすまなかったが、今日はふたりで何を話し合っていたのかな。」
陳亢はまたひやりとした。
そして、伯魚が孔子の問いに答えて、ありのままを話しているのを聞きながら、注意深く孔子の後ろ姿を見守った。
孔子は伯魚の話を黙々と聞きながら歩いていたが、話が終わると、感慨深そうにつぶやいた。
「うむ、お前にそんな教訓を与えたこともあったな。
しかし、何といっても君子の学問の基本は『詩』と『礼』じゃ。
詩は、人間の心を奮い立たせ、感動させる力がある。
人間に、人生を深く見つめる目を与えてくれる。
そして、他の人と共に生きるあたたかな情けを育ててくれるのだ。
また、自分のなかの不満や怨みの気持ちを、美しく上品に表現する技術さえ教えてくれる。
詩の本当の味わいがわかるようになってこそ、身近には父母に仕え、遠くは君主によく仕えることもできるようになるのじゃ。
初級翻訳・論語物語 第24話
下村 湖人
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