初級翻訳・論語物語 第42話

下村 湖人

」
「むろんです……!
そ……それでは、そうではないと言うのですか……!」
 子貢の声は、怒りと悔しさで激しく震えていた。
 孔子は夜空の星をぐっと仰ぎ見ながら、かすかなため息をついた。
しかし、すぐにまた子貢の顔をじっと見つめると、ゆっくりと、しかしどこかものすごく厳しい調子を込めてこう言った。
「いや、そうではない。
わしのやっているすべてのことを一つの軸でドンと貫いているものは、ただ一つだけなのだ。
そのたった一つの真実に、わしの全人生と生命のすべてが懸かっているのじゃ。」
 しかし、孔子はそう言い終えると、なんだかものすごく寂しい気持ちになった。
たとえお弟子たちにすら本当の意味では理解してもらえないようなこの教えを胸に抱きながら、今まさにこんな野原の真ん中で飢えに苦しんでいる自分自身のことを、心の底からいとおしく、切なく思うのであった。同時に、まだ先生の教えを十分に理解できていないのに、自分と一緒にこうして苦しい思いをしているお弟子たちのことが、たまらなくかわいそうに思えてきて、何とか優しい言葉を一つでもかけてやりたくなった。

(しかし――)
と、孔子は心の中で考えた。
(1、自分はくじけてはならない。
一時的な感傷に流されて、お弟子たちを甘やかしてはならない。
彼らの中には、芽を出したままで花を咲かせない者もいるだろう。
また、花を咲かせても実を結ばない者もいるかもしれない。
だが、自分は絶対に引き下がってはならない。
2、なぜなら、自分は彼らを心から愛しているからだ。
彼らの心強い友でありたいからだ。
愛する以上は、彼らにこそ厳しい苦労をさせなくてはならない。
忠実な友であるためには、決して諦めず、たゆむことなく彼らを教え導かなければならない。
それが、天の教えをこの地の上に誠実として表す方法なのだ。
自分がここで一歩でも引き下がれば、天の道も一歩後退することになってしまう。
3、道の実現というのは、たとえば山を築くようなものだ。
あと一握りの土を盛れば完成するというところで挫折したとしても、それはすべての努力が水の泡になってしまう。
また、でこぼこの地面を平らにならすようなもので、たとえ一握りの土であってもそこに盛れば、そのぶん仕事は確実に進んでいるのだ。
道は永遠に続くものだ。
一歩でも前に進むに越したことはない。そして、進むのか退くのか、そのすべては、この苦難に決して屈しない強い心一つにかかっているのだ。)

孔子は、もう何の疲れも感じていない人のようにシャキッとした。
彼は背筋をピンと伸ばし、子路の方を振り返ると、低く、しかしはっきりと聞こえる声でこう言った。
「詩の中に、『サイではなく、トラでもない。それなのに、彼らは広大な野原へと連れ出されていく』という一節があるが、覚えているかね?」
「はい、覚えています。」
「その意味は何だ?」
「人間は、サイやトラのような恐ろしい野獣ではありません。
しかし、人間としての正しい道を踏み外してしまったら、広野をさまよう野獣となんら変わらない、という意味だと理解しております。」
「うむ。
ところで、わしの進んでいるこの道をどう思う? 間違っているだろうか。
なにしろ、わしは現にこうして、野獣のように広野をさまよっているのだからな。」
「先生の道が間違っているかどうかは分かりません。
しかし、世間の人々が自分の言葉を信じてくれないなら、自分の『仁(思いやりの心)』がまだ完全ではないのだと思わなければならないはずです!
また、人々が自分の説く道を実行してくれないなら、自分の『知恵』がまだ足りないのだと思わなければならないはずです!」

子路の答えは、遠慮のかけらもないもので、その声のトーンには不満がめいっぱい込められていた。
しかし孔子は、静かにこう言った。
「それはお前の大きな勘違いだ。
もし『仁』の心を持つ人の言うことが必ずすぐに信じてもらえるものなら、古代の賢人である伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)が餓死することなどなかったはずだし、また、『知恵』のある人の説くことが必ず実行されるものなら、殷(いん)の国の王子比干(おうじひかん)がむごたらしく殺されることもなかったはずだ。」

(※伯夷・叔斉は、孤竹国[こそくこく]の君主の二人の息子で、周の武王が殷の紂王[ちゅうおう]を討ち取ろうとした際、「臣下が王を討つのは間違っている」とこれをいさめたが受け入れられず、周の国の穀物を食べることを恥として首陽山[しゅうようざん]に隠れ、ワラビを摘んで食べて暮らしたが、ついに餓死したと伝えられる究極の仁者である。
また、王子比干は、殷の暴君・紂王の叔父であり、紂王のあまりの暴虐を命がけでいさめた結果、怒りを買って胸を切り裂かれるというむごい方法で殺害されたと伝えられる賢者である。)

子路は、この三人の名前が出ると、さすがにバツが悪そうに首を垂れて黙りこんでしまった。
すると孔子は今度は、子貢の方に向き直って言った。
「詩の中に、『サイではなく、トラでもない。それなのに、彼らは広大な野原へと連れ出されていく』とあるが、わしの道はいけないのだろうか?
わしはまるで野獣のように、こうして広野をうろついているのだがね。」

子貢はしばらく考え込んでから、こう答えた。
「先生の道は、あまりにも大きすぎます。
あまりに大きすぎるからこそ、世間の人々に受け入れてもらえないのです。
もう少し理想のレベルをお下げになって、世の中の人々に受け入れやすくされてはどうかと思いますが……。」

「世間に受け入れられるように、だと?」
孔子はちょっと眉をひそめたが、すぐに穏やかな表情に戻り、こう言った。
「子貢、それはなるほど、いかにも利口な考えだな。
しかし、優れた百姓は作物を育てるのは上手でも、うまく大金を稼ぐことは下手なものだ。
また、名人といわれるほどの大工は、自分の魂をうちこんで全身全霊で仕事をするが、それが一般の他人の好みにぴったり合うかどうかは保証できないものだそうじゃ。
君子もそれと全く同じで、目前のちょっとした利害のために、世間に迎合して自分を曲げてはならない。
私たちが一心に修めるべきなのは『道』そのものだ。
道の正しいルールから外れないように、自分の一切の言動をしっかりと整えることだ。
お前の願いは、道をしっかりと修めることではなく、世間に認められることにあるようだな。それではあまりに利口すぎて、セコい生き方だと言わざるを得ない。
もっと志を遠く大きく持つがいい。」

子貢もまた、返す言葉がなくなり、黙りこんでしまった。
孔子は子貢から目を離すと、あたりを探すように辺りを見回し、こう言った。
「顔回(がんかい)――顔回はいないのか。」

顔回はすぐ、孔子の後ろに控えていた。
もともと体が丈夫ではない彼は、五日間の野宿ですっかり消耗し、誰よりも弱っているはずだったが、その態度はいつものようにきちんとしていた。
白みかけてきた空の光を受けて、彼の顔はまるで死人のように青白く見えた。
しかし、その両目だけは、どこまでも澄んだ涼しげな光をたたえていた。

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