初級翻訳・透明人間 第10話

海野 十三

ジャッファーズ巡査は、えらい元気よくずかずかととびこんでいきました。
すると旅館のうす暗い台所のすみに、なんと首のない人間が、片手にかじりかけのパンを、もう片方の手にはチーズの大きな切れをもって、ぽつんと立っているではありませんか。
「あれですっ!」
ホール夫人がさけび声をあげました。
「なんだ、きさまたちは! なにをしに入ってきたんだ」
首のない化物の、ちょうど首があるはずのあたりから、怒ったような声がきこえてきました。
「ほほう、ずいぶんとかわったやつだな。
だがな、首があろうがなかろうが、わしはちゃんと逮捕状をもってきているんだ。
だから、からだだけでもつかまえていくぞ!」
巡査は、ぱっと男めがけてとびかかりました。
男はさっとうしろにとびさり、手に持っていたパンとチーズを巡査めがけて力まかせになげつけました。
「このやろう! お巡りさんにてむかう気か……」
巡査はまっかになって怒り狂いました。
ホール夫人はせいいっぱい気をきかせて机の上のナイフをとり、ちょうど応援にかけつけていた鍛冶屋のウォッジャーズに手渡しました。
男はさわぎがますます大きくなったので、かんかんに腹を立てたのか、いきなり巡査の顔をいやと言うほどなぐりつけました。
「あっ!」
ふいうちをくらった巡査は、一瞬たじろぎましたが、すぐに猛然と男にくみついていきました。
けとばし、つきとばし、ものすごい大格闘がはじまりました。
巡査は、苦心のすえになんとか相手の首をぎゅっとしめあげました。
もちろん、見えない首をしめあげるのですから、たがいにずいぶんおかしな光景でしたが、巡査はそれどころではなく一生けんめいでした。
男は苦しがって、巡査のむこうずねを思いきりけとばしました。
「おい、足をつかまえてくれ!」
巡査は、痛さをこらえながらさけびました。
ホール夫人があわてて足をおさえにきましたが、ぐずぐずしているうちに、あばら骨のあたりをゴキッと音がするほどけとばされてしまい、胸をおさえてその場にしゃりこんでしまいました。
男はふいに、
「うむ!」
と気合いをさけぶと、すさまじいばか力をだして巡査をなげとばし、あべこべに巡査を下に押しつけてしまいました。
「こいつはいけねえや」
巡査のはた色がすごく悪いとみたウォッジャーズは、おく病風にふかれて、あわてて戸口のほうへ逃げだしていきました。
そこへ、
「おーい、たすけにきたぞー!」
と、ハクスターと馬車屋がドヤドヤとかけこんできました。
巡査とウォッジャーズが、それでやっとほっとした瞬間、戸棚からがらがらとガラスびんが三つ四つころがりおち、鼻をつくいやなにおいが部屋いっぱいにパーッとひろがりました。

「こうさんするよ」
なんだと思ったのか、巡査をおさえつけていた手をふとはなして、首なし男はスッと立ちあがりました。
見れば、頭ばかりか、右手も左手もいつの間にかなくなっています。
手袋がすっかりぬげてしまったからでした。
巡査はすばやく起きなおり、どうにか威厳をつくろいながら、男に手錠をはめようとしましたが、すぐに情けない声をだしました。
「こいつはいかん、いったいどこへ手錠をはめればいいんだ、これじゃ見当がつかんぞ……!」
まわりにいたみんなは、ぎょっとしておたがいの顔を見あわせました。
「ああっ! やつは靴をぬいだぞ、靴下もぬいだわ!
あれっ、足が、足がないよっ!」
ホール夫人が、とんきょうな大声をあげました。
怪しい男は、うずくまって靴下をぬいだかと思うと、こんどは上着をぬぎすて、チョッキのボタンをはずしはじめたのです。
それはもう、世にもふしぎな気味の悪い光景でした。
服の形だけが宙にぷかぷかと浮き上がり、そしてまるで自分自身の生命があるかのようにぐにゃぐにゃと動きながら、一枚一枚とぬぎすてられていくのです。
人びとはあまりのことにあっけにとられて手も足もでず、ぼんやりと立ちすくんでながめるばかりでした。
男はどんどんボタンをはずし、チョッキをぽいとぬぎすてました。
いよいよシャツ一枚になった、そのときです。
巡査があわてふためいて、大声でさけび声をあげました。「やめさせろ! 服をみんなぬがさせると、たいへんなことになるぞ! すっかり見えなくなって、つかまえられなくなるんだ」
「そうだ、そうだ、いまのうちにつかまえてしまえ!」
しかし、すでに男は、手ばやくなにもかもぬぎすてていたので、いまとなっては、あちこち動きまわっている白いシャツだけが、怪しい男のありかをしめしているだけになった。
シャツの袖がひるがえると、ホールの顔にものすごいげんこつがとんできた。
巡査がシャツめがけてとびついていく。
ヘンフリイはうしろからせまっていったが、したたか耳たぶのあたりをなぐりつけられて、悲鳴をあげた。
そのうち、シャツがくねくねと気味わるく動き、人間がぬぎすてるようにまるまったと思うと、ぽんと窓ぎわになげすてられて、怪しい男は完全にその姿を消してしまった。
かれをつかまえる手がかりは、なんにもなくなったのである。
「気をつけろ、ドアをしめろ。
外へださないようにして、なんでもいいから、手にさわったものはみんなつかまえて、なぐりつけろ!」
「ほら、いた!」
「いや、こっちだ!」
だれもかれもむやみに空間をなぐりつけるばかりで、なんのたしにもならなかった。
「おい、おれをなぐるとはけしからんぞ!」
「おまえをなぐったんじゃないんだよ。
あいつはふわふわ浮いてたんでなぐりつけたんだが、やつめ、うまくかわしやがったらしいな。
そのはずみでおまえさんをかすったんだ」
人びとは、むやみにさわぎ、へとへとにつかれてきた。
そのとき、巡査はかれとハクスターの間に動く、いようなけはいを感じた。
「やつだ!」
かれは、見当をつけてとびついた。
手ごたえがあり、男のがっちりとした体をつかまえたとたんに、首をぐいとしめあげられた。
「つかまえたぞ!」
巡査は、首をしめられて紫色になりながら、一生けんめいにさけんだ。
男は、ひどい力で巡査をしめつけながら、しだいに玄関のほうにでてきた。
それにつれて人び들도右に左によろめきながら外へおしだされていった。
男と巡査がもつれるように玄関のふみ段まできたとき、巡査はもう息もたえだえになっていた。
「えーい!」
男は、かけ声といっしょに、巡査をぶるんとふりまわして、地面になげとばした。
巡査は、ひと声うめき声をあげると、その場にばったりと倒れたまま、動かなくなってしまった。
「わあっ、化けものがきたぞ! 巡査がたおされた! やられないうちに逃げろ!」
村びとは後もみずに、つきあたったりつまずいたりしながら、右へ左へ、くもの子をちらすように逃げていった。
人っこひとりいなくなった道に、巡査のジャッファーズだけが、気をうしなってよこたわっていた。

逃走

アイピング村から二キロほどへだたったところにある丘の中腹に、ひとりのこじきがすわっていた。
名をトーマス・マーヴェルという男で、お人よしですこしばかり頭の働きがにぶく、ぶくぶくふとったしまりのない顔をして、頭にはおそろしく時代がかったシルクハットをちょこんとのっけていた。

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