初級翻訳・透明人間 第21話

海野 十三

その光景は、なんともいいようのないくらい、ぶきみなものだったよ」
「それで……」
「白い羊毛がすっかり消えて、ぼくの目に見えなくなったときには、まるで信じられない気がしたよ。
ぼくはそっと、羊毛をおいたあたりをさわってみた。
すると、どうだ! やはり羊毛はまえとおなじ場所に、ちゃんとあるんだ。
そのときのぼくの気もちといったら、うれしいような、気味のわるいような、変な気もちだったよ」
ケンプ博士は口のなかで、そっとつぶやいた。
「信じられん話だが………うそではなさそうだ」
そして透明人間に、ひとやすみしないかと言い、ポケットからたばこをとりだした。
透明人間は一本ぬきとると、火をつけて口にくわえた。
と言っても、やはり空中にたばこがういているように見えるだけである。
「つぎの研究には、ねこをつかったんだ」
「生きてるねこをかい?」
「もちろんさ。
そのねこは階下にすむ、ひとり者の老婆のかわいがっているねこなんだ。
ぼくは血のいろをうすめる薬やらそのほかの薬やらを、苦心してそのねこにのませたんだ。
そして薬で、ねこを眠らせておいた。
ねこがつぎに目をさましたときには、羊毛とおなじように、けむりのようにきえていたんだ」
「ねこが透明になってしまったって……?」
「そうだ。
もっともすこし失敗したところもあって、うまく消えうせてはしまわなかったがね。
うまくいかなかったところは、ひとみと爪だ。
ねこは薬をのませると同時に、ひもでしばって逃げださぬようにしておいたんだ。そのうちに気をとりもどして、起きあがったときには、からだはかんぜんに消え、ふたつのほそい目と爪だけが、部屋のなかにゆうれいのように浮いていたんだ」
「ぶきみな話だ! それに、ねこがかわいそうじゃないか」
ケンプ博士は、とがめるように言った。
「持主の老婆が、ねこを探しにきて、『わたしのねこが、こちらにきているでしょう。
たしかになき声がしていましたよ』と、がなりたて、部屋の中をじろじろとのぞきこんだが、ねこはクロロフォルムでねむらせてあったので、見つかるはずはない。
うさんくさそうになんどもながめまわしてから、やっとひきあげていったよ。
おかしかったねえ」
「透明になってしまったねこは、その後、どうしたんだね」
「さあ、どうしたかね。
透明になると、ひどくあつかいにくくてね。
つかまえようとしてもつかまえることができない。
そして、にゃあにゃあ、なきつづけているので、とうとう、うるさくなって、窓をあけてそとへ追いだしてやったよ」
「すると透明ねこは、いまでもどこかをさまよっているというわけだね」
「生きていればね。
だが、おそらく死んでいるだろう。
目に見えないねこに、えさをやる人もいないだろうからね」
「そうか、かわいそうに……」
博士は、なんにもないところに、ねこ用の丸いひとみがふたつ、みどり色にひかり、かなしそうに食べ物をもとめてなく声だけがきこえる光景を、ありありと思いうかべて身ぶるいした。
「ぶきみなことだ!」

グリッフィン透明になる

つぎに透明人間が話しだしたのは、いよいよかれ自身の体が、どのようにして透明にかわっていったか、ということだった。
「一月のことだったよ。
雪のふる前の日で、おそろしくさむい日だった。
ながい研究のつかれがでたのか、気分はすぐれず、いつものように実験をつづける元気もなかったんだ」
透明人間はつかれたようすもなく、また話しはじめた。
「四年の間、あけてもくれても、ただ研究を完成させることだけを考えてくらしていたが、もともとわずかばかりしかなかった金は、ほとんど使いはたしてしまい、体もくたくたにつかれきると、なにをするのもいやになってしまった。
ぼんやりと丘にのぼって子どもたちがあそんでいるのをながめていたが、そのうち、ぼくの体が透明になって人目につかなくなったら、こんなみじめな境遇からぬけだし、いろいろときばつな、ゆかいなことができるのではないかと、考えたんだ」
「それできみは、体を透明にするおそろしい仕事にとりかかったのかね?」
「そうなんだ。
ぼくは下宿にかえると、さっそく薬の調合にかかったんだ。
そこへ前からぼくのことをうさんくさい目でみていた下宿のおやじが、文句を言いにきたんだ。
おやじは部屋じゅうをじろじろながめまわして、『あんたはいったいこの部屋で、どんな仕事をしているんですかね、へんなにおいがしたり、夜っぴてガス・エンジンがうなったり……おかげで下宿じゅうの人間が、おちおち暮らすこともできないではありませんか。
人には言えねえ怪しげな研究でもやっているんじゃありませんか……とんだめいわくをかけられたら、たまったものじゃありませんからな』と、くどくどといつまでもいいつづけるので、ぼくはとうとうかんしゃくを起こして、『うるさい! でていけっ!』と、どなってやったんだ」
「らんぼうだね!」
「しかたがないさ。
おやじは、ぼくにどなられると、かんかんになっておこりだした。
ぼくはついにがまんしきれなくなって、おやじのえり首をつかむと、ドアのそとへ力いっぱいなげだしてやったよ。
これでぼくは、この下宿からもでてゆかねばならないことになってしまったんだ」
透明人間の着ているナイト・ガウンが、はげしくぶるぶるとふるえた。
そのときのことを思いだして、もういちど腹をたてているらしかった。
「こんなわからずやのおやじがいては、とてもじぶんの研究をこのままぶじにつづけることはできない、とわかったので、ぼくはすぐにつぎの手段を考えだした。
大いそぎで薬品の調合にとりかかり、それができあがると、夕方から夜にかけて、ぼくは体を透明にするその薬をのみつづけたんだ――」
ケンプ博士は、そのとき口をもぐもぐさせて、なにか言いかけたが、そのまま、透明人間の話をだまってききつづけた。
「夜ふけになったとき、薬のために、ぼくはたまらないほど気もちがわるくなってしまった。
いすにぼんやりと腰かけていると、だれかがドアを力いっぱいたたくんだ。
ぼくは動く気がしないので、ながいあいだ放っておいたが、どうしてもノックをやめないんだ。たまらかねてドアをあけると、下宿のおやじが立っていて、なまいきな態度で一枚の紙きれをさしだしたが、ひょいとぼくの顔をみると、目玉がとびでるほどおどろいて、紙きれをその場にほうりだして、ころがるように逃げていったよ」
「どうしたというのだい? そのおやじは……」
「ぼくも鏡をみるまでは、わけがわからなかったんだ。
が、おやじが逃げだしてから、鏡をみて、やっと、やつのふるえあがったわけがわかったよ。
ぼくの顔がまっ白にかわっていたんだ。
すきとおるほど白くね」
「白く?………」
「そうだ。
予期したようにね。
それから夜あけまでの苦しみは、ぼくも予期しなかったことなんだ。
皮膚はもえるように熱くなり、体じゅうが、かっかっとほてって、その苦しさときたら、いまにも気絶して、それっきり死んでしまうかと、たびたび思ったほどだった。

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