初級翻訳・透明人間 第22話

海野 十三

歯をくいしばってがまんしたが、うめき声はひとりでに高くなり、ついにぼくは気絶してしまったんだ」
ケンプ博士は、おそろしさに身ぶるいしながら、心のなかで、
(やつの魂は悪魔にみいられているにちがいない。
でなければ、ふつうの人間に、そんなおそろしいことがたえきれるはずがないんだ)
と、思っていた。
透明人間は、じぶんの話にすっかりむちゅうになって、博士のことなどわすれてしまっているようだった。
「こんど気がついたときは夜あけだったよ。
はげしい苦しみはやんでいたが、ひどい疲れでくたくたになっていた。
明けがたの光が窓からさしこんだとき、ぼくはじぶんの手をみて、おどろきとよろこびといっしょになった、言いようのない声をあげたんだ。
なぜって――両手がくもりガラスのような色になってたんだ。
そして、じっと見つめているうちに、両手はどんどん透きとおって、夜がすっかり明けきったころには、まったく透明になってしまったんだ」
「両手といっしょに、体じゅうも透明になったのかい?」
「もちろんだ。
一番さいごまで色が残っていたのは爪だったね。
じぶんで決心してやったことだが、こうして成功して全身が透明になってしまうと、さすがのぼくも、たいへんなことをやったなと、心おだやかでなかった。
もう一度ベッドにもぐりこんで、昼ちかくまでゆっくり眠って元気をとりもどすと、研究に使った機械や道具を二度ともとにできないように、めちゃめちゃにしておき、ここからでていくじゅんびに取りかかった。」
「なぜ機械をこわしたんだい?」
「ほかの者に、ぼくの研究をかぎつけられないためさ。
そこへまた夜のあけるのをまちかねた下宿のおやじが、くっ強な若者を二人もつれて、『化けものやろうめ、きょうこそは、なにがなんでも追いだしてやるからな。
腕づくでも追っぱらう気なんだ』といきまきながら、ドアをおしやぶってはいってきた。
ぼくは、入れちがいにそとへでていったよ。
もちろん、やつらはすこしも気づかなかった。
部屋のなかにぼくの姿がみえないので大さわぎをしていたよ」
そこで透明人間はおかしそうに、くっくっくっとふくみ笑いをして、また話しだした。
「やつらがぼくの部屋をひっかきまわしてさわいでる間に、ぼくは、おやじの部屋にもぐりこんでようすを見ていたんだ。
さわぎはだんだん大きくなって、下宿の人間はひとり残らず、そのうえ出入りの商人たちまでがぼくの部屋にはいりこんで、実験の機械や薬品をいじりはじめたんだ」
「それで……」
「ぼくはそのようすを見ながら、ふと、『こいつらのように無学なやつどもがさわいでいる間はよいが、そのうちに学問のあるやつがこれを見にきて、ぼくの研究をかぎつけるようなことになるかもしれない』と考えたんだ」
「だってきみは、機械をこわしておいたんだろう?」
「そうだ。
だが、それで安心はしていられないよ。
そこで永久にぼくの研究を秘密にしておく方法を考えだしたんだ」
「どんな方法だい? そんなことができるのかい……」
「完全な方法だよ。
ぼくは、ぼくの部屋でさわいでいた連中がすっかりひきあげると、そっと、おやじの部屋から、ぼくの部屋にひきかえして、そのへんにある書類や紙くずを山とつみあげ、マッチをすって、火をつけてやった。
燃えあがるのをみて、その上にふとんやいすをつみかさね、さいごにゴム管をひっぱって、ガスをふきださせたんだ。
ガスはすぐに燃えあがり、たちまち、ふとんもいすもめらめらと火をふきだした。
ぼくは、そこまで見とどけると、そっと玄関から、街へしのびでていったよ。
いやな下宿におさらばしてね」
「それじゃあ、きみは、放火してきたというのかい?」
「そうさ。
それよりほかに、ぼくの研究を永久に秘密にしておける方法があるかね? ないだろう」
博士には、そのときの透明人間の声が、地獄のそこからきこえてくる悪魔の声のようにおもえた。街にでた透明人間

「街へふみだしてみて、ぼくははじめて透明になったことをゆかいに思ったよ。
ぼくがうしろから、通行人の帽子をはじきとばしたり、肩をぽんとたたいたら、そいつはどんなにおどろいた顔をするだろうかと思うと、まったく考えただけで、ふきだすほどうきうきしてきたんだ。
ぼくは街をあちこちと気ままに歩いていった。
ところが、夕方ちかくなると、ぼくはすっかり弱ってしまった。
よくはれたあたたかい日だったが、一月になったばかりだもの、まっぱだかではたまったものではないよ。
ぼくは歩きながら、がたがたふるえどおしだった」
「はっはっはっ、いくら透明人間になっても、人間はやはり人間だよ。
ま冬にはだかでいられるものか」
 ケンプ博士は、はじめて気味よさそうに笑い声をたてた。
「笑いごとじゃないよ。
日がかたむきかけてくるにつれて、寒さはいっそうひどくなった。
ちょうどブルームズベリイ広場をぬけようとしていたときだ。
ぼくは大きなくしゃみをひとつした。
まわりにいた人たちが、いっせいにふしぎそうにあたりを見まわした。
とたんに、近よってきた白い犬が、ぼくをかぎつけたのか、わんわんとほえたててとびかかってきたんだ」
「透明になっていても、犬にはわかったのだろうか?」
「犬にはわかるらしいね。
かぎつけるんだ。
いまいましい話だが、それからぼくはラッセル広場まで犬に追われて、力のかぎり走りつづけたよ。
ラッセル広場には、まだ人だかりがしていた。
犬からのがれてほっとしたのもつかのま、また、つぎの災難がふりかかってきたんだ」
「つぎの災難っていうのは、どんなことだったのだい?」
「こんどは子どもに見つけられたんだ。
もちろんぼくの姿を見つけるはずはない。
ぼくはつかれはてていたので、ひと休みしようと思って、博物館のまっ白な階段をのぼっていったんだ。
その近くで子どもたちが幾人も遊んでいたよ。
そのひとりがふいに大声でさけんだんだ。
『あっ、みてごらん! おばけの足あとだよ。
ほらほら、はだしの足あとが階段につぎつぎとついてるよ。
おかしいなあ――だあれも登っていってないのに、足あとだけがくっついているよ』この声をきいた時には、ぼくはぎょっとして、どうしていいか、わからなくなってしまったね。
進めば足あとがつくし、立ちどまっていれば、だれかがつかまえにあがってくるだろう。
このときのぼくの気もちをさっしてくれたまえ」
「それで、どうした?」
「そのうち、子どもの声で、やじ馬がぞろぞろと集まってきだした。
こうなっては逃げるよりほかはない。
足あとがつこうが、そんなことにかまっていられなくなって、ぼくは、すぐそばでまごまごしている若い男をつきとばすと、いちもくさんにかけだした。
やじ馬たちはわけもわからず、ただ足あとをたよりにわいわいと追っかけてきたんだ」
「とんだ災難にあったものだな」
「まったくだ。
なんども街かどをまがって、めくらめっぽう逃げていくうちに、足のうらのぬれていたのが乾いてきて、足あとがはっきりつかなくなってきた。
しめたと思って、物かげにかくれ、足のどろをすっかりはらい落として、ゆっくりと休み場所をさがして歩きだしたんだ。

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