初級翻訳・酒虫 第2話

芥川 竜之介

見ると、背が高く、まるで紫石稜(しせきりょう:美しい宝石のような石)のような鋭い目を光らせた、見慣れない格好のお坊さんである。
黄色の法衣を着て、その肩には、クルクルと縮れた長い髪をうるさそうに垂らしている。
その男は、赤い柄のついたハエたたきのような道具を持ったまま、のっそりと部屋の真ん中に立った。
挨拶もしなければ、口もきかない。
劉はしばらくためらっていたが、そのうちに何だか不安になってきて、「何かご用かな?」と尋ねてみた。
すると、外国のお坊さんはこう言った。
「あなたですかな、お酒が好きなのは」
「まあ、そうだが……」劉は、あまりにも質問が唐突だったので、あいまいに答えながら、助けを求めるように孫先生の方を見た。
しかし孫先生は、すまし顔で一人、碁盤の上に石をパチンと置いているだけで、まるで相手にする様子はない。
「あなたは、珍しい病気にかかっておられる。それを、ご存じかな?」お坊さんは念を押すように、こう続けた。
劉は「病気」と聞いてギョッとし、へんな顔をしながら、竹の抱き枕をなでつつ、
「病気――ですかな?」と言った。
「そうです」
「いや、私は子どものころから……」劉が何か言いかけたが、お坊さんはそれを遮って、こう言った。
「お酒をたくさん飲んでも、酔うことがないでしょうな」
「……」劉はジロジロと相手の顔を見つめたまま、言葉を失ってしまった。
実際この男は、いくらお酒を飲んでも、酔っ払ったことが一度もなかったのである。
「それが、病気の証拠ですよ」お坊さんは薄笑いを浮かべながら、話を続けた。
「あなたの腹の中には『酒虫』が住み着いている。それを追い出さないと、この病気は治りません。このわたしは、あなたの病気を治しのためにやってきたのです」
「治りますかな?」劉は思わず心細そうな声を漏らした。
そして、そんな弱気な自分をちょっと恥ずかしく思った。
「治るからこそ、こうして来たのですがね」
 すると、ここまで黙ってやりとりを聞いていた孫先生が、急に口を挟んだ。
「何か、お薬でも使うのですかな?」
「いや、薬など使うまでもありません」お坊さんは不愛想にそう答えた。
孫先生はもともと、お寺の仏教や道教というものを、ほとんど理由もなく見下しているところがある。
だから、道士やお坊さんと同じ空間にいても、自分から話すことはめったになかった。
それが、今ふと口を出したくなったのは、まったくもって「酒虫」という言葉の面白さに心が動かされたからだ。お酒が大好きな先生は、これを聞いて、もしかしたら自分の腹の中にも酒虫が住んでいるのではないかと、少しばかり不安になってきたのである。
ところが、お坊さんのそっけない返事を聞くと、急に自分がバカにされたような気がして、先生はちょっと眉をひそめながら、また元のとおり、黙々と碁石を置き始めた。
そしてそれと同時に、内心では、こんな横柄な坊主にわざわざ会ったりなんかしている主人の劉のことも、何だかバカバカしく思えてきたのである。
一方の劉は、もちろんそんな先生の複雑な思いには全く気づいていない。
「では、針でも使いますかな?」
「なに、もっと簡単なことです」
「じゃあ、呪文(じゅもん)ですか?」
「いや、呪文でもありませんよ」
 こんな会話をひとしきり繰り返した末に、お坊さんはあっさりと、その治療法を説明して聞かせた。
――それによると、ただ裸になって、お日様の当たるとじっと寝転がっていればいいというのだ。
劉には、それがとても簡単なことに思えた。
それくらいのことで治るなら、治してもらうに越したことはない。
それに、自分でもはっきりとは意識していなかったが、この外国のお坊さんの治療を受けるという点で、好奇心も少しばかり刺激されていたのだ。
そこでついに劉も、自分から頭を下げて、「では、どうぞ一つ、治してくださいな」ということになった。
――劉が、すっぽんぽんで炎天下の麦打ち場にゴロゴロと寝転がっているのには、こうした事情があったのである。
治療を始めるときにお坊さんは、「絶対に身動きしてはいけない」と言って、劉の体を丈夫な紐でグルグル巻きにした。
それから、使用人の一人に命じて、お酒を入れた素焼きの壺を一つ、劉の枕元へ持ってこさせたのだ。
その場の流れで、大の酒好きである親友の孫先生も、この不思議な治療に立ち会うことになったのは言うまでもない。
「酒虫」という生き物がいったいどんなものなのか、それがお腹からいなくなるとどうなってしまうのか、枕元に置かれたお酒の壺は何のために使うつもりなのか――それを知っているのは、あの外国のお坊さんを除いては誰もいない。
こうして考えると、何も知らずに炎天下で裸にされている劉は、なんだかとてもうっかりしていて、おバカさんのように思えるかもしれない。だが、ふつうの人間が学校の勉強などをありがたがって受けるのも、実はこれとまったく同じようなものなのだ。

三

 暑い。額へ汗がぢりぢりと湧いて来て、それが玉になつたかと思ふと、つうつと生暖く、眼の方へ流れて来る。
生憎、細引でしばられてゐるから、手を出して拭ふ訳には、勿論行かない。
そこで、首を動かして、汗の進路を変へやうとすると、その途端に、はげしく眩暈がしさうな気がしたので、残念ながら、この計画も亦、見合せる事にした。
その中に、汗は遠慮なく、眉毛をぬらして、鼻の側から口許をまはりながら、頤の下まで流れて行く。
気味が悪い事|夥しい。
それまでは、眼を開いて、白く焦された空や、葉をたらした麻畑を、まじ/\と眺めてゐたが、汗が無暗に流れるやうになつてからは、それさへ断念しなければならなくなつた。
劉は、この時、始めて、汗が眼にはいると、しみるものだと云ふ事を、知つたのである。
そこで、屠所の羊の様な顔をして、神妙に眼をつぶりながら、ぢつと日に照りつけられてゐると、今度は、顔と云はず体と云はず、上になつてゐる部分の皮膚が、次第に或痛みを感じるやうになつて来た。
皮膚の全面に、あらゆる方向へ動かうとする力が働いてゐるが、皮膚自身は、それに対して、毫も弾力を持つてゐない。
それでどこもかしこも、ぴり/\する――とでも説明したら、よからうと思ふ痛みである。
これは、汗所の苦しさではない。
劉は、少し蛮僧の治療をうけたのが、忌々しくなつて来た。
しかし、これは、後になつて考へて見ると、まだ苦しくない方の部だつたのである。
――そのうちに、喉が渇いて来た。
劉も、曹孟徳か誰かが、前路に梅林ありと云つて、軍士の渇を医したと云ふ事は知つてゐる。
が、今の場合、いくら、梅子の甘酸を念頭に浮べて見ても、喉の渇く事は、少しも前と変りがない。
頤を動かして見たり、舌を噛んで見たりしたが、口の中は依然として熱を持つてゐる。
それも、枕もとの素焼の瓶がなかつたら、まだ幾分でも、我慢がし易かつたのに違ひない。
所が、瓶の口からは、芬々たる酒香が、間断なく、劉の鼻を襲つて来る。
しかも、気のせいか、その酒香が、一分毎に、益々高くなつて来るような心もちさへする。
劉は、せめて、瓶だけでも見ようと思つて、眼をあけた。
上眼を使つて見ると、瓶の口と、応揚にふくれた胴の半分ばかりが、眼にはいる。

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