運転手は、すぐ目の前に迫る一角獣のようなツノを見ました。
その後ろでギラリと光る、巨大な二つの目を見ました。
そして、恐怖のあまり気を失ってしまいました。
外から見ていると、怪物は自動車の真正面から車体の上へと這い上がり、屋根を乗り越えて後ろへと降りると、そのまままた電車道を走り去っていくのです。
長い足をめまぐるしく動かしながら、大きな図体を運んでいくのでした。
怪物と、追いかけるおまわりさんや町の人たちとの距離は、だんだんと遠くなっていきました。
人間の二本の足では、とても怪物に追いつけないばかりか、人間は疲れてしまいますが、怪物は少しも疲れた様子を見せません。
怪物は銀座四丁目の交差点を、数寄屋橋の方へと曲がりました。
しばらく走り続けるうちに、数寄屋橋の交番から二人のおまわりさんが飛び出してきました。
二人はピストルを突きつけながら怪物の行く手に立ちふさがったのですが、カブトムシは平気な顔で、まるで機械のように、そのおまわりさんたちを目がけて突き進んでいきます。
「パーン、パーン!」と二発の銃声が響きました。
しかし怪物は少しもひるみません。
そのまま走り続けて、おまわりさんたちを左右にはね飛ばしてしまいました。
二人のおまわりさんは恐ろしい勢いで地面にたたきつけられ、すぐには起き上がることができません。
あの鋭いツノで突き刺されなかったのが、せめてもの幸いでした。
怪物はあれよあれよという間に数寄屋橋を渡り、急に右に曲がったかと思うと、どこかへ見えなくなってしまいました。
おまわりさんや町の人たちが橋を渡ってその辺りをくまなく探し回りましたが、あの怪物のいやらしい姿は、もうどこにも見当たりません。
まるで消え失せたかのように、いなくなってしまったのです。
鉄塔王国
そのお化けカブトムシの、つやつやした真っ黒な背中には、骸骨の顔のような白い模様がついていました。
「黄金虫」という小説に出てくる金色のカブトムシや、死頭蛾(しがしらが)という大きな蛾の背中にも骸骨の顔が浮かび上がっていますが、あれらと同じような恐ろしい模様が、この巨大なカブトムシの背中にもあったのです。
小林少年があとになってそのことを新聞記者に話したため、翌日の新聞にはその絵が大きく載せられました。
それはまるで、地獄から這い出してきた恐ろしい妖虫の姿でした。
しかし、銀座の夜の出来事から二週間ほどは、何事もなく過ぎ去りました。
妖虫はあの晩、数寄屋橋のところでかき消すように見えなくなって以来、一度も姿を現さないのです。
ところが二週間ほど経ったある夜のこと、荻窪の高橋太一郎さんのおうちに、恐ろしいことが起こりました。
高橋さんは昭和鉄工会社の社長さんで、荻窪にある、およそ三千平方メートルもの庭を持つ広大なお屋敷に住んでいました。
家族は主人の太一郎さん夫婦と二人の男の子だけで、数人の女中や書生を置いていました。
二人の男の子のうち、兄の壮一君は中学二年生、弟の賢二君は小学校四年生でした。
その晩七時ごろ、高橋さんのところへ木村というお友達から電話がかかってきました。
主人の太一郎さんはちょうどおうちにいたので電話に出ると、
「いま、村瀬というわたしの会社の者がおじゃまするから、会ってください。詳しいことは村瀬から聞いてくださるように」
ということでした。
まもなくして、その村瀬という男がやってきたのです。村瀬は三十歳くらいで、なんだか人相のあまり良くないやせた男だったのですが、お友達の木村さんからの使いだというので、お部屋(応接間)に通して丁寧にもてなしました。
主人の太一郎さんと挨拶をすませると、むかい合って安楽いすに腰かけました。けれど村瀬という男は、だまって主人の顔をジロジロと見つめるばかりで、なかなか用件を切り出しません。
「木村君からはまだ何も聞いていないのですが、どんなお話ですか?」
太一郎さんが急かすと、村瀬はニヤリと笑って、おかしなことを言いました。
「ぼくは、じつは木村さんの使いではないですよ」
「えっ、それじゃあ、さっきの電話は?」
「あれは、ちょっと木村さんの名前を借りてぼくがかけたのです。ぼくは、声色(こわいろ)を変えるのが得意なんですよ」
村瀬はタバコの煙をふうっと吹き出しながら、平然とそう言いました。
「なんだって? それじゃあきみは、木村君の名前をかたったんだな!」
太一郎さんは思わず身がまえをすると、テーブルの上にある呼び出しベルのボタンに手を伸ばしました。書生を呼ぶためです。
「おっと、ベルを押してはいけない。あなたとふたりきりで話したいんだ。ベルを押せば、これが火をふくぜ」
村瀬は素早くポケットからピストルを取り出すと、太一郎さんに狙いをさだめました。
飛び道具を出されてしまっては、どうすることもできません。太一郎さんはそのまま相手をにらみつけ、じっと動くことができなくなってしまいました。
「では、用件を話そう」
村瀬は得意げに、ペラペラと話しはじめました。
「鉄塔王国……といっても、あなたにはわからないだろうが、そういう名前の小さな王国が、日本のある山の中にできているんだ。世界のだれも知らない小さな王国だ。深い深い山の中に、まっ黒な鉄の塔がそびえている。そこに一つの別世界ができている。おれは、その鉄塔王国の首領、いや、王さまの命令で、あなたのところへやってきたんだ。王さまから、お金持ちのあなたに、一つ頼みがあるんだ。その頼みというのはほかでもない。鉄塔王国に対して、一千万円を寄付してもらいたい。いくら別世界の王国でも、お金がなくちゃやっていけないからね。それで、時間と場所を決めておいて、現金を一千万円、おれに手渡してもらいたい。これが今晩の用件だよ。どうだね、返事を聞きたいね」
村瀬という男はそう言いながら、ピストルの銃口を上げたり下げたりして、主人の顔を見つめるのでした。
太一郎さんは、あまりにもとほうもない話に、ぽかんと口を開けたまま驚いてしまいました。そして、こいつは頭がどうにかなってしまったのではないかと考えました。
「さあ、返はどうだね?」
「ハハハ……、そんなお金は出せないよ。この日本の中に別の王国ができたなんて、だれが信じるものか。それに、一千万円という大金は、わしには急にどうすることもできないよ」
太一郎さんは、まともに答えるのもばかばかしいような気がしました。
「ふーん。あなたは、おれの言うことをでたらめだと思っているんだな。それじゃもっとよくわかるように言ってやろう。鉄塔王国では、小さい子どもが必要なんだ。素質のいい子どもを集めてみっちりしこみ、立派な兵隊にするんだ。鉄塔王国の近衛兵に仕上げるんだ。だから、一千万円がいやなら、あなたの次男の賢二君を、山の中の王国へ連れていくが、それでもいいかね? どうして連れていくのかって? それにはすばらしい武器があるんだ。あなたは今から二週間ほど前、銀座にあらわれたでっかいカブトムシを知っているだろう? あれが鉄塔王国の守り神だ。あれはカブトムシの戦車だよ。ピストルの弾だってはじきかえす鋼鉄の戦車だ。それだけじゃない。あれは魔法使いだ。幽霊カブトムシだ。みんなの見ている前で、スーッと煙のように消えてしまうんだ。
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