その間に、慎吾は下げ緒をほどいて袖をたくし上げました。
おろおろと戸惑うお芳に顎をしゃくって合図し、刀の柄糸を何度も締め直しましたが、次第に自分の胸の鼓動が高まってくるのを感じていました。
待つ時間はだいぶ長く感じられました。
彼は二つ三つと、腕の素振りを試してみました。
まだ余裕がありそうだったので、指を一本ずつ折り曲げながら待ち構えました。
それでもなかなか姿を見せないので、土俵で砂を踏み固めるように、足慣らしを始めました。
しかし、七は一向に出てきません。
準備にしては時間がかかりすぎていますし、小屋の中は妙に静まり返っています。
九
「どうした。七!」
慎吾が怒鳴ってみても返事がないので、さては逃げたな、と土間の中へ駆け込みました。
すると、どうでしょう。意外な光景が広がっていました。
相手は屋内で落ち着き払っていたのです。
慎吾はかえってギクッとしながら、覗き込むように様子を窺いました。七はさっき降ろしたホオノキの炭に、硫黄と青い粉末を混ぜ合わせ、それを乳鉢でゴリゴリと磨り潰していたのです。
慎吾は上がり框(かまち)に片足をかけ、
「七! ひるんだな」
「馬鹿を言え」
七は磨り潰した粉を百匁(ひゃくめ)秤にかけ、目を細めながら言い返しました。
「笑わせるな、誰がひるむもんか」
「出てこいッ、なぜ外へ出てこない」
「おらあ、もう止めだ」
「謝ったか、このたわけ者め! 恐れ入ったと言え」
「ふ、ふ、冗談はよせよ」
「うぬ、まだ広言を吐くか」
「何が広言だ。勝手な歯ぎしりを鳴らしていると、ここから火薬玉を投げつけるぞ」
慎吾は思わず框にかけていた片足を引っ込めました。
「では得物を取って、尋常に戸外へ出ろ。果たし合いというのは、貴様から望んだことだぞ」
「止めたと言っているんだ、くどいな。いいか、よく考えろ。俺は煙火師(はなびし)だ。斬っても斬られても、刀でやり合うなんて面白くねえ」
「ば、馬鹿めッ、刀で果たし合いをせずに何でする!」
「本職で行こうじゃねえか、本職でよ。おめえも次席家老のせがれだっていうが、役名は火術自慢の松代藩でお狼火方(のろしがた)なんだろう。俺も火をいじる商売だ。同じ果たし合いをやるなら、花火で勝負しよう」
「そんな勝負は武士の習いにない。拙者は武士だ、刀にかけて決着をつける」
「俺は職人だ。腕で来い。おい、てめえはいつも何と言っている。口を開けば洋学を振り回して、俺たちのことを『頭脳が古い』だの『無知だの』『時勢遅れだ』と馬鹿にしているじゃねえか。刀と刀でチャンチャンと叩き合うのも、さほど新しくもねえぜ。ひとつ、煙火師と侍、どっちの頭脳が優れているか、腕力ではなく技術で勝負しようっていうんだ。それともてめえの学問は口先だけで、実際には能なしだって言うなら、相手にとって不足だから土間に手をついて謝ってしまえ。ただの螻蛄(けら)だと思って勘弁してやるから」
いつの間にか土間の外では、戸狩の若者たちと四名の藩士たちが、入り乱れて揉み合っていました。
中へ入って慎吾を助けようと息巻く侍たちを、村の若者たちが手を広げて断固として拒んでいます。
慎吾は後には引けなくなりました。戸狩の者や同僚たちの手前、そしてお芳の手前もあります。
「よし! どんな勝負でも受けて立とう。して、その約束は」
「みんなに決めてもらおうじゃねえか」
「ウム、立会い勝負か」
「そうだ。おい、一同、入ってくれ。お芳も逃がさねえように連れてこい」
外で揉み合っていた連中が一時に小屋の中へ雪崩れ込みました。
お芳も逃げるに逃げられず、無惨な羞恥を大勢の背後に隠していました。
しかし、村の習性なのか、危険物を扱う職業的な影響なのか、男女間の風紀が放縦で生活が自由なこの村の者たちは、目の前で引き起こされた三角関係の諍いを見ても、それほど驚いている様子はありませんでした。
もっとも、このことは以前から口には出しませんが、皆うすうす知っていたので、いずれ一度はひと騒ぎあるだろうと予期していたに違いありません。
ただ気の毒なのは兵助老人で、お芳の性的行状をまだ少しも知らずにいました。その小柄な体つきを見て、いつまでも我が娘は子供だと考えていたのです。
ところが事実は、彼女には七之助の前にも、七之助さえ知らない肉体の知己が四、五名もいたのでした。
けれど、それを強いて兵助に知らせようとするほど無惨な者もいませんでした。
お芳も初めは消え入りたそうにしていましたが、男と男が形相を強ばらせ、それを戸狩の者や四人の藩士が息苦しく取り囲んで、いよいよ果たし合いの協議を始めた時分になると、真っ青な顔を上げて、自分の運命についての人々の話に、無関心ではいられなくなってきました。
果たし合いの約束は、ほぼ決定しました。後日になって異議が出ないよう、立会人が箇条書きにして双方へ手渡しました。そのうちの重点を記すと、次のようなことです。
まず、各々が十分自信のある花火を、これから百日の間に製作すること。製作材料ならびに薬品等の選択は、各自の自由とする。また、手助けとして二人までの下職(弟子)を雇うことは許される。
作る花火の大きさは手頃な八寸玉とする。
検証はここにいる一同が立ち会うものとする。
打ち上げ勝負の際、筒の準備や導火線への点火など、すべて本人以外の助太刀は認めない。
場所は善光寺から四里(約16キロ)離れ、川中島から東南へ上った千曲川の河畔。
日はおよそ七月の上旬。
三州・長篠の花火大会へ向けて出発する前に決行する。
約束はざっと以上のような条件であった。さて、勝った方はどうなるのか? 負けた方はどうされるのか? 刀と刀の果たし合いではない以上、命を失うことはないわけだから、当然その結果についても約束を決めておかねばならない。
しかし、その要求については二人とも一致していたため、揉めることはなかった。
簡単明瞭である。
――負けた方は、どんな恥ずかしめも甘んじて受けること。
つまり、制裁に服す! ということだ。
それともう一つ、勝った方は、お芳を自分のものにする! 敗れた者は、恋の資格を失うということであった。
何のことはない、お芳自身にも意思はあるだろうに、立会人たちの話し合いは、彼女の恋の行方までも、八寸玉の中へ詰め込んでしまったのである。
十
慎吾は早速、製作に取りかかった。
彼もまんざら自信がないわけではない。
戸狩の仲間のうち、七之助に反感を持っていそうな男を二名、助手として雇い、その男の小屋と設備を仕事場として使い始めた。
「どんな様子だ? 七のほうは」
同僚が顔を出すと、慎吾はそればかりを探りたがった。
「空家みたいだな、七の家は」
「ふーん、逃げたんじゃないか」
「いや、中で音はしているぞ」
慎吾は常に、七之助のただならぬ迫力に押され気味であった。
藩へ手紙を出して、わざわざ精製した強力な硝石や薬料をぜいたくに取り寄せた。
その点では、七之助が相変わらず伝統を固持し、いわゆる口伝式で妙なものから材料を集めるやり方をしているのに対し、十分な優位性を持てていると感じていた。
村は夏めいてきた。
この山国で新緑を見ると、もう五月の中旬である。
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