初級翻訳・鼠 第5話

岡本 綺堂

近江屋七兵衛といえば、この界隈では誰もが知る、四十二歳の分別盛りの男です。それなのに、わが子を恋しく思うあまりに目がくらんでいたとはいえ、十七、八の小娘にまんまと騙されたのかと思うと、七兵衛も我ながら腹が立つやら、ばかばかしいやらで、しばらくの間は開いた口が塞がりませんでした。

それでもまだ腑に落ちないことがあるので、彼は気を立て直して訊きました。

「そこで、鼠はどうしたのだ。おまえが連れてきたのか。」

「それが不思議でございます。」

お元は、うるんだ瞳を輝かせながら答えました。

「岐阜の宿を逃げ出す時に、商売道具はもちろんですし、鼠もみんな置き去りにしてきたはずでございました。ところが、途中まで出てから気がつきますと、いつのまにか一匹の小鼠が、わたくしの袂(たもと)に入っていたのでございます。」どうして紛れ込んでいたのか、それとも私を慕って来たのか。いずれにせよ、捨てるのも可哀そうに思えて、懐に忍ばせたり袂(たもと)に入れたりして木曾路までは一緒に連れて来ましたが、伊平さんの家に落ちつくようになったとき、因果をふくめて放してやりました。
その鼠はそれっきり姿を見せませんので、どこかの縁の下へでも巣くってしまったものと思っていました。ところが、旦那さまとご一緒に江戸へ帰る途中、碓氷峠(うすいとうげ)をくだって坂本の宿に泊まったときのことです。その晩、どこから付いて来たのか、あの鼠が私の袂のなかに入っているのを見つけて、本当にびっくりいたしました。
それほど自分に馴染んでいて、こうしてここまで付いて来たのかと思うと、どうも捨てる気になれず、そっと袂に入れて連れて来ました。
それを梅次郎さんや義助さんに見付けられて、ずいぶん困ったこともありましたが……。
まあ、旦那さまには隠しておいてもらうことにして、無事に江戸まで帰ってまいりますと、この頃になってまたどこからか出てきまして、時々に私の部屋へも姿をみせるのです。
しかも、ゆうべは私の夢に、その鼠が枕もとへ忍んで来まして、袖をくわえてどこへか引っ張っていこうとするらしいのです。
こっちが行くまいとしても、相手は無理にくわえていこうとする。
同じような夢を幾たびも繰り返して、私もすっかりがっかりしてしまいました。
そのせいか、今朝は頭が重くって、何を食べる気もせずぼんやりしていますと、仲働きと女中の話し声がきこえてきまして……。
」
あまりに気分が悪いので、お元は台所へ水を飲みに行くと、女中部屋で仲働きのお国が女中のお芳に何か小声で話しかけている。
「鼠」という言葉が耳について、お元はそっと立ち聞きすると、ゆうべはあの鼠がおかみさんの蚊帳(かや)のなかへ入り込んだこと、お元の枕もとにも座っていたこと、それらをお国が不思議そうにささやいているのであった。
もう仕方がない、とお元も覚悟した。
娘に化けて近江屋の家督を相続する――その大願成就はおぼつかない。
うかうかしていると化けの皮を剥がれて、騙りの罪に問われるかもしれない。
いっそ今のうちにも何もかも白状して、七兵衛夫婦に自分の罪を詫びて、早々にここを立ち去るほかはないと、彼女は思い切りよく覚悟したのである。
「重々憎い奴と、さぞやお腹も立つでしょうが、どうぞ御勘弁くださいまして、きょうお暇(いとま)をいただきとうございます。」
と、お元はまた泣いた。
その話を聞いているあいだに、七兵衛もいろいろ考えた。
憎いとはいうものの、騙されたのは自分の不覚である。
当人の望み通りに、早々追い出してしまえば問題はないのであるが、親類の手前、世間の手前、奉公人の手前、それを何と説明していいものか。
正直にいえば、まったくお笑い草である。
近江屋七兵衛はよくよくの馬鹿者であると、自分の恥を内外にさらさなければならない。
その恥がそれからそれへと広まると、近江屋の暖簾(のれん)にも傷が付く。
それらのことを考えると、七兵衛も思案にあぐんだ。
女房のお此も夫と同じように考えた。
特にお此は女であるだけに、自分の前に泣いて詫びているお元の姿を見ると、またなんだか可哀そうにもなってきた。
たとえ偽者であるにもせよ、けさまでわが子と思っていたお元を、このまま直ぐに追い出すに忍びないような弱い気にもなった。
「まあ、お待ちなさいよ」と、お此はお元をなだめるように言った。
「そう事が判れば、私達のほうにもまた何とか考えようがある。
ともかくも今すぐに出て行くのはよくない。
もうすこしの間、知らん顔をしていておくれよ。」
「それがいい。」と、七兵衛も言った。
「いずれ何とか処置を付けるから、もうすこし落ち着いていてくれ。
私のほうでも自分の暖簾にかかわることだから、決してこれを表沙汰にして、おまえを騙りの罪に落とすようなことはしない。
まあ安心して待っていてくれ。」
夫婦からいろいろに説得されて、お元もおとなしく承知した。
「それでは何分よろしく願います。」
自分の部屋へ立ち去るお元の後ろ姿を見送って、深い溜息が夫婦の口から漏れた。
いかにお此が弱い気になったからといって、すでに偽者の正体があらわれた以上、それをわが子として養っておくことはできない。
さりとて、その事実をありのままに世間へ発表することもできない。
しょせんはお元に相当の手切金をあたえて、人知れずにこの家を立ち退かせ、表向きは家出と披露するのが一番無事であるらしい。
勿論それも外聞にかかわることではあるが、偽者と知らずに連れ込んだというよりはましである。一度さらわれた娘をようやく連れ戻したものの、その悪い連中が後を追ってきて、再びさらっていった――ということにすれば、こちらに油断があったとはいえ、世間からは気の毒だと思ってもらえるだろう。
ともかく、大きな恥をさらさずにすみそうだ。
夫婦の相談は、まずその筋書きで一致しました。

「それにしても、梅次郎さんと義助さんはあんまりではありませんか」
お此は腹立たしそうに言いました。
「江戸へ帰る途中で、お元の袂(たもと)に鼠がいるのを見つけていたのなら、誰かがそっと知らせてくれてもいいじゃありませんか。お国が話してくれなければ、私たちはいつまでも知らないままでした。このあいだも梅次郎さんに聞いたら、『途中では何の変化もなかった』なんて、しらばっくれていたんですもの」

「まあ、仕方がない。梅次郎や義助を恨んでもはじまらない。誰よりも何よりも、私が一番悪いんだ。私が馬鹿だったのだから」
七兵衛は諦めたように言いました。
「そんな者にだまされたのが何よりの不覚で、今さら人を責めることはない。みんな私が悪いのだ」
さすがは大家の主人だけあって、七兵衛はすべての責任を自分に引き受け、他人を責めようとはしませんでした。

それから二日目の夜が更けた頃、お元は旅支度を整えて七兵衛夫婦の寝間へ忍び寄りました。そこでは七兵衛が待っており、路銀として十両の金を渡しました。
彼は小声で言い聞かせました。
「江戸にいると面倒だ。どこか遠いところへ行くがいい」
「かしこまりました。おかみさんにもいろいろご心配をおかけしました」
お元は蚊帳の外に手をついて頭を下げました。

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