初級翻訳・平家蟹 第2話

岡本 綺堂

あそこを背にして、味方の軍船はおよそ五百艘、まるで大きな鳥が翼を広げたように左右に開いて陣取っていたのです」

雨月「今、私が立っているこの浜辺には、源氏の大軍が黒山のようにひしめき合っておりました。まして海の上には兵船が三千艘、少なくとも味方の五、六倍はあったと記憶しております。それが一度に漕ぎ寄せてくる。何を言うにも多勢に無勢……(ため息をつく)。わずか一日の戦いで……。思えば、本当に儚いことでした」

玉虫「とはいえ、平家は最期まで勇ましく戦いました。武器は折れ、矢は尽き、船は砕け、人が海に沈んで果てるまで、一人として卑怯に降参する者はなく、口々に敵を呪って死んでいったのです」
(恨めしげに眉を吊り上げる)
「あなたはまだ知らないでしょうが、雨風が荒れて波が高い夜には、海に数え切れないほどの鬼火が現れ、大勢の人々の泣き声が悲しげに聞こえてくるのですよ。海に滅びた平家の一門、骸(むくろ)は深い海の底に葬られても、魂はこの世にとどまり、百年も千年もの尽きることのない恨みを繰り返しているのでしょう」

雨月「『繋念(けいねん)五百生(ごひゃくしょう)、一念無量劫(いちねんむりょうこう)』とは申しますが、罪深いのは修羅の妄念でございます。とはいえ、この世にいない人々の執念は、法華経の功徳によって成仏し、救われる道もありますが……容易に救いようがないのは、今この世に生きている人の執念です。甥の景清にも、一切の執着を捨てて復讐など諦めるよう、何度も意見したのですが……」

玉虫「景清は聞き入れなかったのですね。ああ、そうでしょうとも。そのような生半可な悟りの説法など、私だって聞き入れはしません」

雨月「では、あなたも……」

玉虫「私も源氏を呪っているのです」

雨月「源氏を……呪っていると?」

玉虫「何をそんなに驚くことがあるのです。煩悩があり、執着があるからこそ、人はこの世に生きているのですよ。執念こそが人の命そのものです。一切の煩悩や執着を捨てるくらいなら、冷たい土の下で眠っているほうがマシというものです」

雨月「失礼ながら、それは凡夫の迷いというものです……」

玉虫「やれやれ、しつこいですね。あなたと私とでは心が違うのです」
(しとしとと雨が降り出し、玉虫は空を見上げる)
「五月の習い、また雨が降ってきましたね。おい、宗清。あなたも急いで行く先があるわけではないでしょう。今夜は一晩ここに泊まって、雨が上がるのを待ってから出発しなさい」

雨月「それはそうと、あなたのお住まいは……」

玉虫「この浜伝いに五、六町(約600メートル)ほど行ったところです。あの一本松が目印ですよ」

雨月「では、まず先帝の御陵に参拝してから、改めてお尋ねいたします」

玉虫「雨が強くならないうちに、戻ってきなさい」
(玉虫は別れて去っていく。雨月はその背中を見送る)

雨月「ただでさえ女性は罪深いと聞いていたが、源氏を呪い殺そうと執念深く思い詰めておられるとは、あまりに恐ろしいことだ。今夜泊まれと言われたのを幸い、もう一度お会いして、迷いの雲が晴れるように説得するのが法師の務めというものだろう」
(少し考えて)
「まずはその前に、御陵へ参拝することにしよう」
(波の音が大きく聞こえる)
「おお、日が暮れて波が高くなった。空は暗く、雨も降る……。鬼火が迷い出ると言われるのは、今夜のような夜のことだろう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
(海に向かって再び手を合わせる。そこへ那須の家来二人がうかがい出てくる)

家来甲「怪しい旅の僧め……」

家来乙「むむっ」
(二人が走りかかり、捕らえようとする)

雨月「何ゆえの狼藉か! 愚僧、決して怪しい者ではございません!」家来甲「おい、海に向かってお経を唱えるとは……」
家来乙「間違いなく、平家にゆかりのある者に違いない」
(二人が無理やり連行しようとすると、雨月は行かせじと抵抗し、ついに二人を投げ倒す。二人はかなわないと見て逃げ去る。雨月は法衣のほこりを払い、苦笑いする)
雨月「一度仏門に入った身からは、昔の武士の気性など捨てたはずなのに、我を忘れて荒っぽい振る舞いをしてしまった。法衣を着る身として面目ないことだ。悟りを開くというのは、本当に難しいものだな」

(二)

 浜辺の苫屋(とまや)は、二重の造りで竹の縁側は朽ちかけている。正面の上部は板壁で、上に祭壇を設け、注連縄(しめなわ)を張っている。中央の出入り口には破れた簾(すだれ)が垂れ下がっている。下の方も同じく板壁である。庭の入り口には丸太の門があり、牡蠣殻のついた垣根が結われている。垣根の外には松の大きな木があり、後ろには壇ノ浦の海が近くに見える。
(浜の女房おしおが、サザエの殻の灯台に火をともしながら独り言を言う)
おしお「もうすぐ日が暮れるというのに、姉妹の方々は何をしておいでなのだろう……。このごろの天候のせいか、また雨が降ってきたようだが……」
(雨が少し降る。玉虫が帰ってくる)
玉虫「今戻りました」
おしお「おお、お帰りなさいませ。あいにく雨が降ってまいりましたので、さぞお困りでしょう」
玉虫「降ったり止んだりは最近の習いですから、大した雨ではありません」
(濡れた被衣(かつぎ)を脱いで縁側に上がる)
玉虫「いつもいつも留守番を頼んで、ありがとう。それで、妹はまだ戻りませんか?」
おしお「まだお帰りになっておりません」
玉虫「このごろは、何かに追われるようにそわそわして落ち着かず、家を空けて出歩いているが、どうしたことだろうか」
(玉虫が眉をひそめると、おしおは笑う)
おしお「それも生業(なりわい)ですから、仕方がありませんでしょう」
玉虫「生業とは……?」
おしお「えっ」
(口ごもる)
玉虫「妹がどのような仕事をしているのですか」
おしお「さあ、うっかり口をすべらせたのは私の過ちです。どうぞお許しください」
玉虫「いや、詫びることはない。はっきりと言ってくださればよいのです」
(玉虫の妹の玉琴、十七、八歳が、被衣をかぶって下の方から現れ、門に立って家の中のやり取りを盗み聞きする。玉虫はおしおが返答しないので、少し考え込む)
玉虫「おしお殿、包み隠さずに言ってください。平家が滅びた後は、官女たちも散り散りになり、この辺りにさまよって、生きる甲斐もなく日々を送っている。その中には恥を忍んで、上り下りの旅人や、出入りする船の商人を相手に、身を売って暮らす者もいると聞く。妹ももしや、そのような……」
おしお「さあ……」
玉虫「これ、はっきりと返事をしてくださらないか」
(詰め寄ると、おしおはますます困り果てる。玉琴が門を開けて駆け込んでくる)
玉琴「姉さま……お許しくださいませ」
玉虫「むむ……。やはり推測通り、姉に隠していつの間にか、遊女や白拍子の流れを汲み、身を売る身分となったのか」
玉琴「そのお叱りは受ける前から分かっておりましたが、昔とは違う今の身の上、ただぼうっとしていては姉妹二人がどうなることでしょう。飢えて死ぬような事態になれば、恥も外聞も言ってはいられません。その日その日の食料が欲しさに……」
おしお「おお、それもごもっともです。

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