初級翻訳・魔術 第2話

芥川 竜之介

どうしたのかと思って手に取ってみると、これは私が一週間ほど前にミスラ君へ貸した覚えがある、フランスの新しい小説でした。
「本を貸してくれて、本当にありがとう。
」
ミスラさんはまだ微笑んだ声で、こう私に礼を言いました。
もちろん、その時はもうたくさんの本が、みんなテーブルの上から本棚の中へ戻ってしまっていました。
私は夢から覚めたような気持ちで、しばらくは挨拶さえできませんでしたが、そのうちにさっきミスラ君が言った、「私の魔術などというものは、君でも使おうと思えば使えるのだよ。
」という言葉を思い出しましたから、
「いや、かねがね評判は聞いていましたが、あなたがお使いになる魔術が、これほど不思議なものだとは、実際、思いもよりませんでした。
ところで、私のような人間にも、使って使えないことのないというのは、冗談ではないのですか。
」
「使えるとも。
誰にでも簡単に使える。
ただ――」と言いかけてミスラ君はじっと私の顔を見ながら、いつになく真面目な口調になって、
「ただ、欲のある人間には使えない。
ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることだ。
君にはそれができるか。
」
「できるつもりです。
」
私はこう答えましたが、なんとなく不安な気もしたので、すぐにまた後から言葉を添えました。
「魔術さえ教えていただければ。
」
それでもミスラ君は疑わしそうな目つきを見せましたが、さすがにこれ以上念を押すのは失礼だとでも思ったのでしょう。
やがて大きな声で頷きながら、
「では教えてあげよう。
が、いくら簡単に使えると言っても、習うのには時間がかかるから、今夜は私の所へ泊まっていきなさい。
」
「どうも、いろいろとありがとうございます。
」
私は魔術を教えてもらえる嬉しさに、何度もミスラ君にお礼を言いました。
が、ミスラ君はそんなことに頓着する様子もなく、静かに椅子から立ち上がると、
「おばあさん。
おばあさん。
今夜はお客様がいらっしゃるから、寝床の準備をしておいてください。
」
私は胸を躍らせながら、葉巻の灰をはたくのも忘れて、まっすぐに石油ランプの光を浴びた、親切そうなミスラ君の顔を思わずじっと見上げました。
× × ×
私がミスラ君に魔術を教わってから、一月ほど経った頃のことです。
これもやはりザーザー雨の降る晩でしたが、私は銀座のあるクラブの一室で、五、六人の友人と、暖炉の前へ陣取りながら、気軽な雑談にふけっていました。
何しろここは東京の中心ですから、窓の外に降る雨足も、ひっきりなしに行き交う自動車や馬車の屋根を濡らすせいか、あの、大森の竹藪にしぶくような、もの寂しい音は聞こえません。
もちろん窓の中の陽気なことも、明るい電灯の光と言い、大きなモロッコ皮の椅子と言い、あるいはまた滑かに光っている寄木細工の床と言い、見るからに精霊でも出てきそうな、ミスラ君の部屋などとは、まるで比べものにはなりませんでした。私たちはモクモクと煙を出しながら、しばらくは狩りの話や競馬の話をしていましたが、すると、友だちの一人が吸いかけの葉巻を暖炉にポイッと投げ入れて、僕の方を振り返りながら言いました。
「君、最近は魔法使いだってウワサだけど、どうなの?今夜、僕たちの前でちょっと見せてくれないかな?」
「いいよ!」
僕は椅子の背もたれに頭をドンと預けたまま、まるで大魔法使いみたいに、ちょっと偉そうにそう答えました。
「じゃあ、何でも君に任せるからさ、普通の手品師じゃ絶対できないような、すっごく不思議な魔法を見せてくれよ!」
友だちたちはみんな賛成みたいで、それぞれ椅子を僕の方にゴトゴトと引き寄せながら、早く!って感じで僕を見ていました。
そこで僕は、ゆっくりと立ち上がって言いました。
「よーく見ててね!僕が使う魔法には、タネも仕掛けもないんだから!」
僕はそう言いながら、両手の袖口をグイッとまくり上げて、暖炉の中でメラメラ燃えている石炭を、何でもないことみたいに手のひらの上にサッとすくい上げました。
僕を囲んでいた友だちたちは、これを見ただけでもう、ビックリして肝を冷やしたようでした。
みんな顔を見合わせながら、「うっかり近くに寄って火傷でもしたら大変だ!」って、ちょっと気持ち悪そうに後ろに下がっていきました。
そこで僕は、ますます落ち着き払って、手のひらの上の石炭の火を、しばらくみんなの目の前にグッと突きつけてから、今度はそれを勢いよく、ピカピカの寄木細工の床にバラバラッとまき散らしました。
その瞬間です!窓の外の雨の音をかき消すように、もう一つ、変わった雨の音が急に床の上から聞こえてきたのは。
だって、真っ赤な石炭の火が僕の手のひらを離れたとたん、数えきれないほどのピカピカの金貨になって、雨みたいに床の上にジャーッと降り注いだんですから!
友だちたちはみんな、まるで夢でも見ているみたいに、あっけにとられて、拍手することさえ忘れていました。
「まあ、こんなもんかな!」
僕は得意げな笑顔を浮かべながら、静かにまた元の椅子に座り直しました。
「これ、全部ほんものの金貨なのかい?」
あっけにとられていた友だちの一人が、やっとそう僕に尋ねたのは、それから5分くらい経ってからのことでした。
「ほんものの金貨だよ。ウソだと思うなら、手にとって見てごらん。」
「まさか、火傷しちゃうなんてことはないだろうね?」
友だちの一人は、おっかなびっくり、床の上の金貨を手に取ってみましたが、
「なるほど、これ、ほんとに金貨だ!おい、店員さん、ほうきとちりとりを持ってきて、これを全部掃き集めてくれ!」
店員さんはすぐに言われた通り、床の上の金貨を掃き集めて、山みたいに横のテーブルに積み上げました。
友だちたちはみんなそのテーブルの周りを囲んで、
「ざっと20万円くらいはありそうだね。」
「いや、もっとあるんじゃないか?もしテーブルが弱かったら、重すぎて壊れちゃうくらいあるじゃないか!」
「いやはや、すごい魔法を習ったもんだ!石炭の火がすぐに金貨になるなんて!」
「これじゃあ、1週間も経たないうちに、岩崎さんや三井さんにも負けないくらいのお金持ちになっちゃうぞ!」と、みんな口々に僕の魔法をべた褒めしました。
だけど、僕はやっぱり椅子にもたれかかったまま、ゆったりと葉巻の煙をフウッと吐いて、
「いや、僕の魔法っていうのはね、一度でも欲張る気持ちが生まれたら、もう二度と使えなくなっちゃうんだ。だからこの金貨だって、君たちが見ちゃった以上は、すぐにまた元の暖炉の中にポイッと投げ入れちゃおうと思ってるんだ。」
友だちたちは僕の言葉を聞くと、示し合わせたみたいに、反対し始めました。
こんなにたくさんのお金を元の石炭に戻しちゃうなんて、もったいない話だ!って言うんです。
だけど僕は、ミスラ君に約束した手前もあるから、どうしても暖炉に投げ入れるんだ!って、頑固に友だちとケンカしました。
すると、友だちの中でも、一番ずる賢いってウワサのやつが、鼻でフンッと笑いながら、
「君はこの金貨を元の石炭に戻したいって言う。僕たちはそうしたくないって言う。

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