そして男性には、あの善良なタヌキがいつも溺れかけてあがいているのだ。
作者の、それこそ三十何年にもわたる、ひどく不振な経歴に照らしてみても、それは火を見るより明らかだった。
おそらくは、あなたにとっても。
(後略)
舌切雀
私はこの『お伽草紙』という本を、日本の国難を乗り越えるために戦っている人々の、ほんのひとときの休息のためのささやかな玩具になればと思い、このごろ常に微熱がある不完全な体ながら、仕事があれば出勤し、自分の家の被災の後始末などをしながら、とにかくその合間に少しずつ書き進めてきたのである。
「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」、その次に「桃太郎」と「舌切雀」を書いて、一応この『お伽草紙』を完結させようと私は思っていた。しかし桃太郎のお話は、あれはもう極限まで単純化されていて、日本男児の象徴のようになっており、物語というよりは詩や歌のような趣さえ呈している。
もちろん私も最初は、この桃太郎も私の物語として書き直すつもりでいた。
つまり、あの鬼ヶ島の鬼というものに、ある種の憎むべき性格を与えてやろうと考えていたのだ。どうしてもあれは、征伐せずにはいられない醜く、極悪非道な人間として描写するつもりでいたのである。そうすれば、桃太郎が鬼を退治する話も、読者のみんながワクワクして、手に汗を握るような、本当にピンチの連続という物語になるはずだと意気込んでいたのです。
(まだ書いてもいない自分の作品の計画を語るとき、作家というのはたいてい、こうやって可愛らしいホラを吹くものなんですよ。
そんなにうまくはいかないものですがね。)
まあ、とにかく、まあ、聞いてくださいよ。
どうせ、大きなことを言っているだけですから。
とにかく、からかわずに聞いてくれ。
ギリシャ神話に出てくる、一番意地悪で醜い魔物といえば、やっぱりあの髪の毛がヘビでいっぱいのメドゥーサでしょう。
眉間には疑い深い深いシワが刻まれ、小さな灰色の目には浅ましい殺意が燃え、真っ青な頬は怒りで震え、黒ずんだ薄い唇は嫌悪と馬鹿にした気持ちでひきつるようにゆがんでいます。
そして、長い髪の毛の一本一本が、すべて赤いお腹をした毒ヘビなんです。
敵に対してこの無数の毒ヘビは、素早く一斉に頭をもたげ、シューシューと気味の悪い音を立てて襲いかかります。
このメドゥーサの姿をひと目見た人は、なんとも言えない嫌な気持ちになって、心臓が凍りつき、体全体が冷たい石になってしまったといいます。
恐怖というよりは、不快感ですね。
人の体よりも、人の心にダメージを与える。
こういった魔物は、最も憎むべき存在であり、また一刻も早く退治しなければならないものです。
それに比べると、日本の化け物は単純で、どこか愛嬌があります。
古いお寺の大入道や、一本足の傘の化け物なんて、たいていはお酒好きの豪傑のために、無邪気な踊りを披露して、夜中の暇つぶしに付き合ってくれるだけのような連中です。
また、絵本に出てくる鬼ヶ島の鬼たちも、体ばかり大きくて、サルに鼻をひっかかれたりすると、「ああっ!」と言ってひっくり返って降参したりしています。
これでは、ちっとも怖くありません。
なんだか善良な性格の持ち主のようにも思えてきます。
そんな相手では、せっかくの鬼退治も、なんだか気の抜けた物語になってしまいますよね。
ここはどうしても、メドゥーサの首以上にすごくて、これ以上ないほど不快な魔物を登場させなければなりません。
そうでなければ、読者をハラハラさせることなんてできないのです。
また、征服者である桃太郎が強すぎても、読者はかえって鬼のほうをかわいそうに思ってしまったりして、物語のドキドキするような面白さは生まれてきません。
ジークフリートのような不死身の英雄だって、肩に一箇所だけ弱点を持っていましたよね。
弁慶にも急所があったといいますし、とにかく、完璧で絶対的な強者というのは、物語には向かないのです。
それに私は、自分自身が力不足なせいか、弱者の気持ちは少しはわかるつもりですが、強者の心理というものは、あまり詳しく知らないのです。
特に、誰にも絶対に負けない完璧な強者なんて人には、今まで一度も会ったことがないし、噂でさえ聞いたことがありません。
私は、多少なりとも自分で実際に経験したことでなければ、一行も一字も書けない、空想が貧弱な物語作家なのです。
ですから、この桃太郎の物語を書くにあたっても、そんな見たこともない「絶対に負けないヒーロー」を登場させるのは、どうしても不可能なのです。
結局、私の描く桃太郎は、小さい頃から泣き虫で、体が弱くて、恥ずかしがり屋で、ちっとも頼りない男だったけれど、人の心を壊し、永遠の絶望と震えと恨みの地獄に突き落とすような、悪辣で醜い鬼たちを目の当たりにして、「自分は非力だけれど、もう黙って見てはいられない!」と勇気を振り絞り、きびだんごを腰にぶら下げて、あの鬼たちの巣窟に向かって出発する……といったお話になりそうです。
また、あの犬・サル・キジの三匹の家来も、決して模範的な助っ人ではなく、それぞれに困った癖があって、たまには仲間割れを始めたりするかもしれません。まるで『西遊記』に出てくる悟空や八戒、悟浄のようなキャラクターとして書くことになるでしょう。
しかし、私は「カチカチ山」の次に、いよいよこの「私の桃太郎」に取りかかろうとして、突然、ひどく気が重くなってしまったのです。
せめて桃太郎の物語だけは、このままの単純な形で残しておきたい。
これはもう、ただの物語ではありません。
昔から日本人みんなに歌い継がれてきた、日本の詩なのです。
物語のつじつまが少しくらい合わなくても、そんなことはどうでもいい。
この詩のような、明るくさっぱりした雰囲気を、いまさらあれこれといじくり回すのは、日本に対して申し訳ない。
なんといっても桃太郎は、「日本一」と書かれた旗を持っている男です。
日本一どころか、日本二も三も経験したことのない作者が、そんな日本一の快男子を描写できるはずがありません。
私は桃太郎のあの「日本一」の旗を思い浮かべたとき、潔く「私の桃太郎物語」を作る計画をあきらめたのです。
そうして、すぐ次に「舌切雀」の物語を書き、それだけで一応、この『お伽草紙』を締めくくろうと思い直したわけです。『舌切雀』にしても、前の『瘤取り』や『浦島さん』、『カチカチ山』にしても、どれも「日本一」なんていう大層な肩書きの登場人物はいないから、僕の責任も軽くて、自由に書くことができたんだ。でも、「日本一」ということになると、いくらお伽話だからといっても、この尊い国で一番だなんていうデタラメな書き方は許されないだろうね。
もし外国の人が見て、「なんだ、これが日本一なのか」なんて言ったら、その悔しさはどんなものだろう。だから、僕はここでしつこいくらいに念を押しておきたいんだ。瘤取りのおじいさんたちも、浦島さんも、カチカチ山の狸さんだって、決して日本一じゃないんだぞ。桃太郎だけが日本一なんだ。そして僕はその桃太郎を書かなかったんだから、この『お伽草紙』には、日本一なんてものは出てこない。
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