ある夕方、一人の女が不意に店先に立ちました。
身分の高い人らしく、立派な服装をしています。
その着物の色が、ひどく庄太郎の気に入りました。
そのうえ、庄太郎は女の人の顔に、とても感心してしまいました。
そこで、大事なパナマ帽を脱いで丁寧に挨拶をしたら、女の人が籠に入った一番大きいのを指差して「これをください」と言うので、庄太郎はすぐにその籠を取って渡しました。
すると女の人はそれを少し持ち上げてみて、「とても重いわね」と言いました。
庄太郎はもともと暇人で、とても気さくな男ですから、「では、お宅までお持ちしましょう」と言って、女の人といっしょに果物屋を出ました。
それきり、帰ってこなかったのです。
いくら庄太郎でも、あまりにのんきすぎます。
「ただ事ではないだろう」と、親戚や友達が大騒ぎしていると、七日目の夜になって、ふらりと帰ってきたのです。
そこでみんなが寄ってたかって「庄さん、どこへ行っていたんだい?」と聞くと、庄太郎は「電車に乗って山へ行ったんだ」と答えました。
よほど長い電車に違いない、とみんなは思いました。
庄太郎の話によると、電車を降りるとすぐに広い原っぱに出たそうです。
とても広い原で、どこを見渡しても青い草ばかり生えていました。
女の人といっしょに草の上を歩いていくと、急に絶壁のてっぺんに出ました。
その時、女の人が庄太郎に「ここから飛び込んでごらんなさい」と言いました。
底を覗いてみると、崖は見えますが底までは見えません。
庄太郎はまたパナマ帽を脱いで、何度も断りました。
すると女の人は、「もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐められますが、それでもよろしいのですか?」と聞きました。
庄太郎は豚と雲右衛門(くもえもん)が大嫌いでした。
けれども命には代えられないと思って、やっぱり飛び込むのをためらっていました。
そこへ、豚が一匹、鼻を鳴らしながらやってきました。庄太郎はしかたがないので、持っていた細いヤシの木のステッキで、豚の鼻先をペシッと叩きました。
すると豚は「ブヒッ」と鳴きながら、ころりとひっくり返って、崖の下へと落ちていきました。
庄太郎がふうっと一息ついていると、また別の豚が一匹、大きな鼻を庄太郎にすりつけてきました。
庄太郎はしかたなく、またステッキを振り上げました。
豚は「ブヒッ」と鳴いて、また真っ逆さまに穴の底へと転がり落ちました。
すると、また一匹あらわれました。
この時、庄太郎はふと気がついて向こうを見ると、はるか青い草原の果てから、何万匹いるのか数え切れないほどの豚たちが、群れをなして一直線に、この崖の上に立っている庄太郎を目指して、鼻を鳴らしながらやってくるではありませんか。
庄太郎は心底ゾッとしました。
それでもどうすることもできないので、近づいてくる豚の鼻先を、一匹ずつ丁寧にステッキで叩き続けました。
不思議なことに、ステッキが鼻に触れさえすれば、豚はころりと谷の底へ落ちていきます。
覗き込んでも底が見えないほどの深い崖を、逆さまになった豚たちが、行列をつくって落ちていくのです。
自分がこれほど多くの豚を谷底へ落としたのかと思うと、庄太郎は自分でも怖くなりました。
それでも豚は次から次へとやってきます。
まるで黒い雲に足が生えて、青い草を踏み分けながら押し寄せてくるような勢いで、終わりなき群れが鼻を鳴らして迫ってきます。
庄太郎は必死の勇気を振り絞って、七日と六晩、豚の鼻先を叩き続けました。
けれども、とうとう力尽きてしまい、手はまるでこんにゃくのようにグニャグニャになって、最後には豚に顔を舐められてしまいました。
そうして、庄太郎は崖の上にバタリと倒れてしまったのです。
健さんは、庄太郎の話をここまで話すと、「だから、あまりじろじろと女の人を見るもんじゃないよ」と言いました。
僕も、もっともだなと思いました。
けれども健さんは、庄太郎のパナマ帽が欲しいと言っていました。
どうやら庄太郎は、もう助からないでしょう。
あのパナマ帽は、きっと健さんのものになるはずです。
初級翻訳・夢十夜 第7話
夏目 漱石
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