大刀老人は、とうとう先祖代々伝わる大切な掛け軸を売り払って、お金を工面しようと決めました。
息子に「どうだろうか」と相談すると、息子は恨めしいほどあっさりと「それがいいでしょう」と賛成してくれました。
息子は内務省の社寺局で働いていて、月給は四十円です。
奥さんと二人の子供を養いながら、大刀老人の面倒まで見ているので、本当に骨が折れる生活です。
もし老人がいなかったら、この大切な掛け軸も、とっくにお金に変わっていたことでしょう。
この掛け軸は、一尺(約30センチ)四方ほどの絹地に描かれていて、長い年月を経て煤(すす)竹のような色になっています。
暗い座敷に掛けると、薄暗くて何が描いてあるのかさっぱり分かりません。
老人はこれを、王若水(おうじゃくすい)が描いた「葵(あおい)」の絵だと称しています。
そして、月に一、二度ほど袋戸棚から取り出し、桐の箱のほこりを払って、中身を丁寧に広げ、三尺の壁に掛けては、じっと眺めているのです。
なるほど、よく見ていると、煤けた中に古血のような大きな模様が浮かび上がります。
緑青(ろくしょう)が剥げた跡なのかな、と不思議に思えるようなかすかな痕跡も残っています。
老人はこのぼんやりとした古い中国の絵に向き合っていると、生きすぎてしまったと感じるほど長く住み慣れた世の中のことさえ忘れてしまうのでした。
ある時は掛け軸をじっと見つめながらタバコを吸い、ある時はお茶を飲みます。
そうでなければ、ただひたすらに見つめています。
「おじいちゃん、これなあに?」と子供たちがやってきて指で触れようとすると、老人はようやく現実に引き戻されたように、「触っちゃいけないよ」と言いながら、静かに立ち上がって掛け軸を巻き始めます。
すると子供たちは「おじいちゃん、鉄砲玉(お菓子)は?」と聞きます。
「うん、鉄砲玉を買ってくるから、いたずらをしてはいけないよ」と言いながら、ゆっくりと掛け軸を巻いて桐の箱に入れ、袋戸棚にしまい、それから散歩に出かけます。
帰り道に町内の飴屋さんに寄って、ハッカ入りの「鉄砲玉」を二袋買ってきて、「ほら、鉄砲玉だよ」と言って子供たちにやるのです。
息子が晩婚だったので、子供たちはまだ六歳と四歳です。
息子と相談した翌日、老人は桐の箱を風呂敷に包んで、朝早くから出かけました。
そして四時ごろになって、また桐の箱を持って帰ってきました。
子供たちが玄関まで出てきて「おじいちゃん、鉄砲玉は?」と聞いても、老人は何も言わずに座敷へ入り、箱の中から掛け軸を出して壁に掛け、ぼんやりと眺め始めました。
四、五軒の道具屋さんを回ってみたけれど、「落款(らっかん)がない」とか「絵が剥げている」などと言われ、老人が期待していたような敬意を、誰も掛け軸に払ってくれなかったのだそうです。
息子は「道具屋さんはやめなさい」と言いました。
老人も「道具屋はだめだ」と言いました。
二週間ほどしてから、老人はまた桐の箱を抱えて出かけました。
今度は息子の課長の友人という人のところへ、紹介状をもらって見せに行くことにしたのです。その時も、老人は子供たちへのお土産である「鉄砲玉(飴)」を買ってきませんでした。
息子が帰ってくるなり、老人は「あんな眼の節穴な男に、どうしてあの掛け軸が譲れるものか。あそこに並んでいる品は、みんな偽物ばかりだ」と、さも息子に徳がないかのように責め立てました。
息子はただ苦笑いするだけでした。
二月の初めごろ、幸運にも良い縁談が舞い込み、老人はその掛け軸を、ある物好きな収集家に売ることができました。
老人はすぐに谷中へ向かい、亡くなった妻のために立派な石碑を注文しました。
そして、残ったお金は郵便貯金に預けました。
それから五日ほど経ったある日、老人はいつものように散歩に出かけましたが、いつもより二時間ほど遅く帰ってきました。
その時、老人の両手には、大きな鉄砲玉の袋が二つも抱えられていました。
売り払った掛け軸が気にかかっていたので、もう一度見せてもらいに行くと、四畳半の茶室にひっそりと飾られており、その前には透き通るような美しい蝋梅(ろうばい)が活けられていたのだそうです。
老人はそこで、ご馳走のお茶までいただいたということでした。
「あれは、私が持っているよりも、あそこで大切にされる方が安心かもしれないな」と、老人は息子に言いました。
息子は「そうかもしれませんね」と答えました。
子供たちはその日から三日間、鉄砲玉ばかりを食べて過ごしました。
***
**紀元節**
その教室は、南向きの明るい部屋でした。
窓から差し込む明るい日差しを背中にして、三十人ほどの子供たちが黒い頭を揃え、黒板を見つめていると、廊下から先生が入ってきました。
先生は背が低く、目は大きく、痩せ細った男で、顎から頬にかけて、おじいさんのような汚らしい髭が生えかけていました。
そして、そのざらざらした髭が触れる着物の襟は、薄黒く垢がついて汚れて見えました。
そのだらしない着物と、不精に伸びた髭、そして一度も生徒を叱ったことがない性格のせいで、先生はみんなから馬鹿にされていました。
先生はやがて白墨(チョーク)を手に取り、黒板に「記元節」と大きく書きました。
子供たちはみんな黒い頭を机の上に押しつけるようにして、作文を書き始めました。
先生は低い背を伸ばして教室内を見回していましたが、やがて廊下を通って部屋を出て行きました。
すると、後ろから三番目の机の中ほどにいた子供が席を立ち、先生の教卓のそばへやってきました。そして、先生が使った白墨を手に取ると、黒板に書いてある「記元節」の「記」の字に棒線を引いて消し、その横に新しく「紀」と太い文字で書き直しました。
ほかの子供たちは、笑いもせずに驚いてその様子を見ていました。
先ほどの子供が席に戻ってしばらく経つと、先生も部屋に戻ってきました。
そして、黒板の書き換えに気がつきました。
「誰かが『記』を『紀』と直してくれたようだが、『記』と書いても間違いではありませんよ」と先生は言い、また一同を見回しました。
教室中、誰も何も言わずに黙っていました。
「記」を「紀」と直したのは、ほかでもない私でした。
明治四十二年の今になっても、それを思い出すと、なんとも卑しい心持ちがしてなりません。
そして、あの時が、おじいさんのように薄汚れた福田先生ではなく、みんなが恐れていた校長先生であったなら、どれほどよかっただろうと、思わずにはいられないのです。
***
**儲け話**
「あちらは栗がたくさん採れる場所でしてね。
まあ、相場としてはだいたい両(りょう)で四升くらいのもんでしょうか。
それをこちらへ持ってくると、升で一円五十銭もするんですよ。
それでね、私がちょうど向こうにいた時分でしたが、港から千八百俵ばかりの注文がありました。
うまく行けば一升につき二円以上になる計算でしたから、さっそく取り掛かりましたよ。
千八百俵を揃えて、私が自分で栗と一緒に港まで運んでいくと――なに、相手は中国人でして、本国へ送り出すためだったんです。
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