初級翻訳・『西遊記』の夢 第4話

『西遊記』の夢

しかし、海の底がぐっともりあがって山のてっぺんになるというのは、とんでもなく恐ろしいことなのだ。
関東の大地震で地面がほんの四寸(約十二センチ)ばかり動いただけで、東京の街から三百年の江戸文化のなごりがすっかり消えてしまい、明治の文化すらほとんど失われてしまった。
日本は天災が多い国だと言われているけれど、まだまだ私たちの祖国の土はとてもおとなしいほうであって、アジアの大陸の奥のほうでは、大地はもっともっと荒々しくて、自然はもっと恐ろしい顔をいつも見せているのである。
地震なんかも、この西域(せいいき)の土地では、関東大地震なんかとは比べものにならないくらい強烈なものが、大昔から何度も何度も襲ってきた。
そして現代でも、世界の屋根と呼ばれるパミールでは、山全体がすごい勢いでくずれ続けているような場所もあるのだ。
一九一一年二月の地震で、パミールの中部にあるバルダン渓谷は、一晩にしてその姿をすっかり変えてしまった。
山肌からくずれ落ちた岩や土のかすが、あっという間に谷を埋め尽くし、かつてはキルギスの人々にとって最高の牧場だった場所を、美しい山の湖に変えてしまったのである。
それは三年後には、一番長いところが十七マイル(約二十七キロ)もある湖になったのだが、その四年目にスタインがそこを訪れたときにも、くずれ落ちた岩や土の巨大なダムは、まだ新しい湖の水面から千二百フィート(約三百六十メートル)も突き出たままだった。
そして、山の崩壊はまだまだ続いていて、その山頂は山くずれの土ぼこりで雲のようにすっぽりおおわれていたそうである。
眠っている地球がもし一度目を覚ましたなら、ほんの髪の毛一本くらいの動きであっても、それは人間が思い描くどんな空想も、一瞬ですべてはじきとばしてしまうだろう。
そう考えてみると、地球の科学者や地質学者がアルプスの山がどうやってできたかを話し合ったり、太平洋が月にぽっかり空いた穴のあとじゃないかとなしをしたりしているのを、もし孫悟空が聞いたなら、私たちが『西遊記』を読んでびっくりするのと同じくらい、きっとびっくりするにちがいない。
そういえば、今の子供たちは、ドイツからのラジオ放送を聞いても、宇宙の星雲の話を聞いても、だれもあんまりびっくりしないけれど、それは科学がみんなに行き渡ったことのいいことなのか、それとも悪いことなのか、すぐには決められないむずかしい問題である。
この頃はうちの子供たちも本に夢中になって、ごはんよばれてもやってこなかったり、夕方の暗くなった窓際で電気もつけずに本を読みふけったりして、よくお母さんに怒られている。
ときどきその本をのぞいてみると、今の時代と昔をくらべてしみじみしてしまうくらい、子供向けの良い本がたくさん出ているようだ。
しかし、そういう綺麗で分かりやすい良い本ばかりを読んでいるのは、少しだけかわいような気もしないでもない。
ちょっとひねくれた言い方になるかもしれないけれど、子供にとって分かりやすくて、面白くて、勉強になるような本ばかりを読んで育ったとしたら、本当の意味で自然のすばらしさに感動するような、鋭い喜びを知らなくなってしまう心配が、ないわけでもないのだ。
国民学校の五年生になる上の子が、この頃『西遊記』に夢中になり始めているのを見ていると、なぜだか少し恐ろしいような気さえしている。
というのは、せっかく買ってあげた子ども向けの上品な『西遊記』にはサラッと目を通しただけで、本当に夢中になっているのは、大人向けの本棚にある古い『西遊記』なのだから。「そんなむずかしい本が分るかい」と聞いても、「分るさ、面白いよ」と言いながら、ほっぺたをまっ赤に火照らせて、こちらを振り返りもしないで読みふけっている。
その横顔を見つめながら、私は静かに、少年時代の古くて煤けた家の姿を心に思い描いてみた。
すると、仏壇の間に灯るほのかな燈明のゆらぎが、目の前にはっきりと蘇ってきたのだ。
「その玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)というお坊さんは、本当に実在した人なんだよ。
そのお坊さんが書いた本も、お父さんは持っているんだ。
インドへお経を取りに行った途中のことが書かれているんだけど、見せてあげようか」と言うと、もちろん子どもたちは大騒ぎになる。
三人の子どもたちが折り重なるようにして、国訳の『大唐西域記(だいとうさいいきき)』をのぞき込み、「三蔵法師玄奘奉詔訳(さんぞうほうしげんじょうほうしょうやく)」という文字に目を輝かせて、息をのんでいる。
ふと、山本晋道(やまもとしんどう)師の『天竺紀行(てんじくきこう)』についていた、アショカ王の石の柱(阿育石柱)の刻文の拓本のことを思い出し、ルンビニー(臘伐尼林=ろうばつにりん)のページを説明しながら、二行だけ読んで聞かせる。
「四天王が太子をお支えになった仏塔(※堵波=とば)のそばから遠くない場所に、大きな石の柱があって、上には馬の像が彫られている。
無憂王(むゆうおう=アショカ王)が建てたものだ。
のちに悪い竜が雷(いかずち)を落としたために、その柱は真ん中からポキリと折れて地面に倒れてしまった」
「その石の柱はね、三蔵法師はこの本に書いてあるとおり、たしかに自分の目で見たんだ。
でも、そのあとですっかりジャングルの中に埋もれてしまって、どこにあるのか分からなくなってしまったんだよ。
それから千年もの間ずっと行方が分からなかったんだけど、それがこの現代になって、やっと見つかったんだよ」
と言って、その拓本を広げて見せた。
「これはね、その石の柱に紙をピタッと押しつけて、墨のついた綿でトントンと叩いて作ったものなんだ。
だから、文字が彫ってあるところだけが白く残っているだろう。
ここにあるこの白い細い筋が、すごく面白いんだよ。
この白い筋がね、悪い竜の雷が落ちたときに折れた傷あとなんだ。
三蔵法師も、この割れ目をちゃんと見たんだね」
子どもたちは息をのんだまま、目をまんまるにしてじっとのぞき込んでいる。
そのうちの一番下の子が、はあと息を吸いこんで、「それじゃあ、やっぱり本当のお話なんだね」と、心から感動した様子で言う。
さすがに一番上の子は、「本当っていうかさ、お父ちゃん、そんなのいったい誰からもらったの?」と、ちょっと変わった質問をしてくる。
講談の本をこっそり読むようなことができない現代の子どもたちも、この本物の拓本にはさすがに驚いたらしかった。
地球の内部が燃える火の球だと言えば、それを疑問に思うのは、ほんの一部の科学者くらいのものだろう。
おそらくほとんどすべての子どもたちは、「そんなこと分かりきってるよ」と答えるにちがいない。
その子どもたちの答えは、二つの意味でよく考えてみる必要がある。
第一は、すべてを「分かりきっている」と思い込んでいる点であり、第二は、もっと大切なことなのだが、そんなすごい事実を聞いても、あまり驚かなくなってしまっていることである。
「分かりきっている」と思い込んでいるほうは、科学をわかりやすく教える本の工夫によって、あるいは直すことができるかもしれない。
しかし、地球の神秘に対して「本当の心から驚くような気持ち」を育てるとなると、それだけではなかなか難しいだろう。

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