しかし、その断片的な情報だけを聞かされると、兵食の事例によって「胚芽米が脚気予防に一番良い」ということが証明されたのだと、つい思い込んでしまう恐れが十分にあるのです。
学者というものは、とかく新聞記者を嫌う人が多いものです。
その理由として、「間違ったことを書くから」というのは、いかにももっともな理屈です。
しかし、最近の一流新聞では、そう出鱈目な記事を書くことは滅多にありません。
それよりも、もっと事情に通じた人たちは、「新聞は活字の配置や強調の仕方で、嘘は書いていないのに、全く別の印象を読者に与えるように書くから困る」と言います。
この指摘はまさに核心を突いており、現代ジャーナリズムの本質の一面をよく表していると思います。
しかし、今回の「兵食と胚芽米」のような話も、そうしたジャーナリズムの弊害とどこか通じるところがありそうです。
学者だって、新聞記者の悪口ばかりを言っているわけにはいきません。
稀な例としては、「新聞記者は嫌いだ」と言うことを、まるで自分が名声などに無頓着であるかのように見せるための手段にする――つまり、裏を返せば「新聞に載ることは名声を上げることだ」と信じているような古いタイプの学者もいるかもしれませんが、そういう人はここで議論するまでもないでしょう。物事の強調の仕方の話で思い出しましたが、Tさんはまだ一つ面白い話を教えてくれました。
ある日の午後、Tさんはピカピカに光るニッケルめっきの筒の中に兎を押し込んで、すっかり身動きもできないように固定すると、無理やり口をこじ開けて、ひき茶の粉を練ったものをその中に押し込んでいたのです。
兎は苦しがってもがくので、口ひげや鼻のあたりが、すっかりお茶まみれになっていました。
「これは腎臓の機能を調べているんですがね。十銭のチョコレートを二つ、こういう風にして食べさせると兎は死ぬんですよ」と、Tさんは手を動かしながら言います。
「チョコレートって、あの普通のチョコレートですか?」と聞くと、「そうです。そこらへんで売っている十銭のチョコレートですよ。ですが、僕は人間がチョコレートを食べると死ぬなんて言いませんから、ご安心なさい」と、Tさんもなかなか意地悪なことを言うものです。
まあ、チョコレートならまだ運が良い方で、白米は運が悪かったとあきらめてもらうより他ありません。
この頃、兵隊さんたちの手記が時々新聞に出ます。その中で「真珠のように光る」日本米が配給された時の兵隊さんたちの喜びが書かれているのを読んで、私はひどく心を打たれました。こうなると、白米禁止なんて軽々しく言えることではありません。
もちろん、「それは白米の味に慣れていたからであって、初めから全国民が胚芽米や半搗(はんつき)米を食べていれば何でもないことだ」という議論も出るかもしれません。しかし、この問題はそう簡単には片付けたくないと私には思われます。
I氏の論文の最後には、ドイツの例が引用されています。世界大戦当時、ドイツ軍が食料不足のどん底にありながらも、第一線から後方に交代してくる兵士たちに「鯉(カルペン)」を一尾ずつ与えたという話です。そして、「これはこの一尾の鯉によって、タンパク質何グラム、脂肪何グラム、カロリーいくらを補給しようと企図したのではない」と付け加えられています。
こうなると、「軍人は単純なところが美点で、学者には深慮が取り柄である」という従来の考え方が、どうもあべこべになりそうです。もっとも、それは一向にかまわないことで、単純であることも深慮であることも、考えようによっては共に立派な美徳なのです。
以上の話は、なんだか栄養学の知識など少しもないくせに、むやみに胚芽米の悪口を言ったように見えるかもしれません。しかし、そういうつもりは毛頭ありません。
Tさんが調べた結果でも、健康な大人の男性に胚芽米を食べさせて便を検査してみると、胚芽の殻に小さな穴が開いているので、内部のビタミンが摂取された形跡は確かに残っているそうです。ですから、健康な大人で、胚芽米が好きな人が常用することは、現在の私たちの知識の範囲内では望ましいことなのでしょう。
しかし、それと「白米禁止」とでは、あまりにかけ離れすぎています。
私たちがまだ物心のつかない頃、田舎でコレラが大変流行ったことがあったそうです。その頃、北陸の片田舎のお医者さんは、「コレラは生水を飲んだために感染したのだ」という考えから類推したのか、患者に絶対に水を飲ませなかったという話です。
そのせいで多くの患者たちは、喉の渇きに苦しみながら死んでいきました。そんな中、こっそり縁側まで這い出して、手洗いの水を飲んだ人の中には助かった者もいるという言い伝えを、子供の頃に聞いたことがあります。この話の真偽は確かめようがありませんが、そんなこともあり得るだろうと思われます。
私たちも子供の頃、お腹を壊すと湯や水を禁じられた記憶があります。ところが現代の医学では、激しい下痢性の病気では「水分の補給が一番大切である」ということは常識として教えられています。それではまるで、かつての医学が病人を殺していたようなものです。
しかし、私は科学を商売にしているせいかもしれませんが、ある場合にはそれも仕方がないという気もします。とにかく、もしその時代の医学界における最高の知識として「水を飲ませない」ことになっていたのなら、それに従うのもまた止むを得ないことでしょう。ただ問題なのは、その時もし「法令」によって水を飲むことを禁じていたら、そのために死んだ人々の親や子たちは、いつまでもその法令を呪うことだろうと思うのです。
こういう例を白米禁止のたとえに持ち出すのは、少し激しすぎるかもしれませんが、猫の説明に虎を持ち出すくらいのたとえにはなるでしょう。
ところで、こうして考えてみると、結局一番不思議なことは、「白米禁止」というような大変なことが、白昼堂々と本気で、かなり責任ある地位にいる人々の間で議論されたということです。
この話は数年後には全くの笑い話となるかもしれませんが、現代の政治におけるある逸話として、時代の色を映し出す一つの良い例でしょう。こういう非常時になると、何事でも法令で決めて、どしどし実行していかないと間に合わないのかもしれません。そして、そのこと自体が良いか悪いかは、私たちには知らされていないことであり、また論議すべき事柄でもないのです。ただ、そういった場面で「ある物事を決めるのに科学的な根拠がある」と言うときには、よほど注意しなければなりません。なぜなら、自分では科学的な根拠だと思い込んでいることが、案外そうではなかった、なんていうことも十分にあり得るからです。
統計ほど確かなものはないと同時に、統計ほど嘘をつくものも少ないとは、よく言われることです。
それと同じように、科学的な研究の結果というのも、一歩間違えると、とんでもなく非科学的な結論へと導かれてしまいそうな気がするのです。
「科学を尊重せよ」という言葉と、「科学を警戒せよ」という言葉。この両方ともが、実は真実なのでしょう。
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