また、おかずに十分なビタミンが含まれている場合に、それ以上多量のビタミンを与えても、栄養がその分だけ高まるのかどうか。そういったことが、真っ先に問題になるはずです。
その上、胚芽米に加工できる米は日本中どこにでもあるわけではありません。米の改良や、精米装置の改造といった農政面の問題が、これまた重要な関わりを持ってくるでしょう。
その話はひとまず置いておくとしても、「栄養学的な研究くらいはあるのだろう」と思って、Tさんに聞いてみたことがあります。
するとTさんは、「それは僕、やってみましたよ。老人や子供に胚芽米を食べさせて、その便を調べてみると、胚芽がちっとも破れていないんです。それを洗って胚芽だけ集めて鳩に食べさせてみると、ちゃんと脚気が治りますから、胚芽米はまあ、お腹を素通りしたということになるんでしょうね」と、すましているのです。
「それでは困りますが」と聞いても、Tさんはニヤニヤしているばかりです。
では一体、「おかずの中のビタミンは、煮るとなくなってしまう」という話ですが、それでも大丈夫なのでしょうか。そう聞いてみると、また意外な返事が返ってきました。
「それはまあ、実験室で煮た場合でしょうな」と言うのですから、少々変な話です。
よく聞いてみると、こういうことでした。
Tさんは、木の葉の表面が直射日光に照らされた時は、表面に近い部分が非常に高温になることがあるのに、その中のビタミンは破壊されないことからヒントを得たそうです。緑茶の中にビタミンCを入れて何分か煮沸してから、その中のビタミンCの量を計ってみたのだそうです。
すると、なんと九十五パーセントも残っていたのです。
同じ条件で蒸留水を使って煮てみると、従来言われている通り、ビタミンCは完全になくなってしまうのは言うまでもありませんでした。
これはTさんのご自慢の研究なのです。
「普通のお惣菜の中のビタミンがどうなっているかは、なかなか分かりませんよ。お台所で煮たのと、実験室で煮たのとでは違いますからね」と、Tさんはニヤリとしています。
こうした話を耳にすると、学術的な研究を実際の問題に結びつける時には、よほどの注意が必要だと感じて恐ろしくなりました。
何よりも、科学的研究の結果を発表したり、特に一般向けに分かりやすく解説したりする場合には、あまり世間の人々の頭のレベルを低く見ることは禁物です。
そして、素人に対しても、やはり真面目に「条件」を明示して、研究結果を説明すべきだと思ったのです。
もっとも、研究者自身の頭のレベルが低い場合は、これはもうどうしようもありませんが、そんなことはないでしょう。
「ビタミンCを蒸留水中で何分煮たら壊れた」という実験を、「ビタミンCは熱によって破壊される」と短く言ったり、「鳩に胚芽米を食べさせたら脚気にならなかった」という研究を、「胚芽米を食べれば栄養が摂れる」という風に説いたりするのは、どうも考えものです。
もちろん、これは研究者自身がそのような意図で言ったのではなく、それを聞いた一般の人々が勝手に誤解しているだけなのかもしれません。
専門の学者たちは、それぞれの専門雑誌の論文では、そうした研究の意味をよく理解し、その価値を正しく批判して発表しているはずです。ですから、それらの研究や結論そのものがつまらないと言っているわけでは、毛頭ありません。とはいえ、専門家が素人に向けて説明する際にも、研究の内容やその前提となる条件をもう少し親切に示してくれれば、これほど誤解を招くことも少なくなるはずです。
自分の専門である物理学のことは棚に上げて、他の分野の学問ばかりをやり玉に挙げているようで心苦しいのですが、素人の立場からすると、色々な研究結果を誤解したり、逆に教え導かれたりする経験というのは、専門外の学問でなければなかなか味わえないものなので、どうしてもこうなってしまうのです。
もちろん、物理の世界でも、これと似たような誤解が世間に広まってしまっていることは多々あるでしょう。
そう考えると、実に恐ろしいことです。
さて、胚芽米の話に戻りましょう。
あるお医者さんに聞いた話なのですが、「陸軍で胚芽米を採用したところ、脚気が非常に減ったそうだから、やっぱり効果があるんでしょうね」というのです。
もしそれが本当なら、これ以上ないほど立派な証拠です。実際に人間でそうした結果が出ているのであれば、それが何よりも確かなことですからね。
ただ、兵隊さんたちはみんな屈強な若者ばかりですから、その結果をそのままお年寄りや子供たちに当てはめて考えるわけにはいきません。その点では、話は単純ではないのです。
先日、こういった内容をある新聞のコラムに少し書いたところ、四、五日して、陸軍軍医少佐のI氏という方から、論文の別刷りと手紙が届きました。
その手紙によると、陸軍で胚芽米を採用したから脚気が減ったというのは間違いだそうです。
「陸軍が胚芽米の宣伝役を買って出ているかのような誤った説をよく耳にするので困っている」とおっしゃるのです。
そして、「別刷りの何ページを見てほしい」という書き添えがあったので、早速拝見しました。
その論文は『陸軍糧食給与の実況』という題名で、読んでみると非常に面白い内容でした。
軍隊ができた当初は、欧米の真似をする風潮が陸軍にも入り込み、「漬物を禁止しろ」とか「パン食にしてしまえ」といった議論が真面目に交わされていたそうですが、石黒子爵の尽力によって今日の日本軍特有の兵食が出来上がったという冒頭の記述に、まずは興味を引かれました。
論文の大部分はカロリー計算が中心でしたが、その中に「近年の陸軍においても胚芽米を使用している部隊は少なくないが、患者の統計に表れる脚気の発生率が、その使用によって特に影響を受けているとは認めがたい」という一節がありました。添えられた表を見ても、まさにその通りなのです。
実際には、軍の創設当時は非常に多かった脚気が、麦飯の導入と副食の工夫によって大きく減少していたのです。
麦飯が陸軍全体で採用されたのは日露戦争の頃ですが、表を見る限り、脚気が激減したのはその十五年ほど前からでした。
つまり、副食の工夫というものが、重大な要因の一つであったことが分かります。
日露戦争当時に一時的に脚気が増えたという話もありますが、その点についてはここでは触れないでおきましょう。
このように、きちんとした論文を読めば、十分か二十分で分かることを今まで知らなかったのですから、随分とのんきな話です。
しかし別の見方をすれば、こんな簡単なことさえ誰でも知っているような科学知識として広まっていないのは、困った問題です。
まあ、知らなかったのは極々一部の人だけかもしれませんが、どうもそうではなさそうです。
それどころか、かなり多くの人が、特に栄養に直接関わる仕事をしている人たちまでが、私と同じように思い込まされていたのではないかと思える節が多々あるのです。
陸軍で昔は脚気が非常に多かったこと、今は激減していること、そして胚芽米を使っている部隊が少なくないことは、すべて事実です。
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