一般の西洋人が『降魔図(ごうまのず)』から受ける印象と、孫悟空や八戒とともに育ってきた私たちが、この絵から感じるものとは、本質的に違っていても少しも不思議ではありません。
東洋画の心髄は、見る人を「協同製作者」として巻き込むところにあるということは、すでにいろいろな人が言っていることです。
茶の湯の芸術は、鑑賞する人が演出者の役割も兼ねるところにあるということも、谷川(徹三)さんをはじめ、たくさんの人が言われているとおりです。
ところで、凡人には分からない最近の不思議な洋画のことですが、あれももしかすると、観客を協同製作者にしようとする一つの試みなのかもしれません。
もしそうだとしたら、これは西洋人が試みた「東西文明の融合」の一つの表れということになります。
強く主張するつもりは全くありませんが、こういう説明も、一つの可能性として考えられるというだけのことです。
もしそうだとしたら、ああいう絵は、私たちには到底理解できないものであったとしても、少しも差し支えありません。
西洋人と私たちとでは、ものの感じ方がまるで違っているからです。
例えば、ディッケンズの『クリスマス・カロル』の中に出てくる幽霊は、私たちには到底理解も、また心で感じることもできない幽霊です。
あの幽霊は、鎖を引きずってくるところは少し分かりますが、あれは「過去」というものが幽霊となって現れてくるものですよね。
私たちは、手をぶら下げ、すそをなびかせた幽霊は知っていますが、「抽象名詞」が化けて出たような代物には、全く縁がないのです。
だから、この頃の奇妙な絵に描かれている頭蓋骨の役割を理解できないのが、むしろ当然なのではないでしょうか。
もっとも、こういう話は、結局のところ西域画や正倉院の絵、つまり千年以上も昔の芸術が好きだという年寄りのたわごとですから、新進気鋭の作家の皆さんは、何も気にされることはありません。
(昭和二十六年十一月)
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