初級翻訳・『西遊記』の夢 第2話

『西遊記』の夢

八戒のくせにすその長い着物を着て、金の冠(かんむり)のようなものまでかぶって、なんだか不器用そうに熊手を振りかぶっている。
子どものころから頭の中にずっとあって、悪いことばかりするくせになぜか憎めない、あの八戒の姿そのままがひょっこりと目の前に現れたので、ものすごく懐かしかった。
この絵は宋(そう)の時代の初めごろのものとされているから、本当の玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)が、唐の太宗(たいそう)の貞観(じょうかん)三年に都である長安をあとにして、はるばるインドへの旅に出発したころから比べると、三百年くらいもあとに描かれたものということになる。
けれど、『西遊記』が書かれたと考えられている宋の終わりごろから元の初めごろの時期から見ると、ずっと古い時代のものである。
昔から「白骨(はっこつ)の人が収まる場所もない」とうたわれた青海(せいかい)の湖のほとりには、そのころちょうど八戒たちも実際にいたのかもしれない。
審美書院(しんびしょいん)が自慢する美しい木版刷りの色彩で見ると、千年のあいだ土の中に眠っていて、いままた明るい太陽の光を浴びた八戒は、鮮やかな赤と黄色い着物を着て、まるで一、二年前に描かれたばかりかのような鮮やかな色彩のまま、大切に保存されていたのだった。

八戒の登場と前後して、スタインという人の書いた『中央アジヤ踏査記(とうさき)』を読むにいたって、私の『西遊記』の夢はますます本物へと近づいていった。
スタインの専門的な探検報告や、敦煌の絵画のような分厚くて大きな本にはなかなか手が出ないけれど、この『踏査記』のような手軽に読める本に、彼の仕事のすべてがぎゅっとまとめられているのは、本当にありがたかった。
それに、風間(かざま)さんによる重みのある訳文もとても素晴らしかった。
スタインは一九〇〇年から一九一六年にかけて、前後三回にわたって中国の西域(せいいき)にあるタクラマカンの荒野へ発掘の旅を続けた。
彼の旅の主な目的は、古代のいわゆる「シルクロード(絹の道)」をはっきりと確かめ、さらに玄奘法師やマルコ・ポーロが通った道を、今の地図の上でしっかりとたどることだった。
中国の奥地――いまは重慶(じゅうけい)政府がソ連との連絡のためにものすごい努力をしている、あの西北の土地は、カラコラム氷河の氷がとけて流れ出るわずかな川のまわりを除いては、ほとんど「死の世界」そのものだった。
玉門関(ぎょもんかん)を越えて、太平洋側の水が届く勢力の限界を一歩外へ出ると、その西にある、はるか世界の屋根である「葱嶺(そうれい)」に至るまでのいわゆる中国領トルキスタンの地方は、完全に草木も生えない砂漠と、カラカラに乾ききった岩山が広がる世界だった。
そこはもう生き物が住む世界ではなく、暗い砂漠の嵐が狂い狂い、大きな塩の湖が干からびてできた塩の床が、探検家たちの足を頑固に拒み続けるような土地なのだ。
そして、ほんのわずかな人びとだけが、砂漠の砂にすっぽり埋もれた大昔の古い街のあとで、ヒマラヤの雪がとけ出たわずかな流れの水をすくいながら、どうにかこうにか命をつないでいる場所だった。
今から千三百年前のむかし、三蔵法師は、こういう恐ろしい土地を、本当はやっぱり孫悟空も八戒も連れずに、たった一人で歩いて行ったのだろう。
「葱嶺(そうれい)を越えるときは、冷たい風が肌を切り、舞い上がる砂が道をふさぎ、谷と谷の間が大きく離れているところに出会うと、綱を橋の身代わりにして渡し、空中に梯子(はしご)をかけて進んでいく」と当時の本にも残っているそうだけれど、まさにそんな命がけの旅だったのである。
スタインの仕事は、この同じ恐ろしい土地で、三蔵法師が歩いた道を推測しながら、砂漠の中にすっかり埋もれてしまった昔の街を発掘して、古い遺跡や昔の品々を探し出すことだった。
「探検家」というと、豪快で大胆な人をみんな想像しがちだけれど、スタインはまったくそれとは反対の、とても慎重な性格の人だったようだった。
スタインの探検が大成功した理由の大部分は、彼の優れた学問の力にあったようだ。
発掘されて出てくる古い紙の切れ端や、木でできた札(木簡)に残されている文字を、スタインにはおぼろげながら、大体読み取ることができた。
ヨーロッパ人にとっては難しくて読めるはずもない、大昔の漢文やサンスクリット語、古代インドのブラフミー文字といったものまで、どうにかこうにかなんとなくの意味が分かったのだ。
そして、その文字を手がかりにして、その場所がどういう意味を持つところだったのかを推測しながら、次の発掘へと進んでいったのである。
ニヤという古代の遺跡では、たくさんの木札(木簡)が集められた。
それは古代インドの「カロシチー文字」で書かれたものだった。
そしてその文字の書き方から、それがスキタイ王朝――つまり西暦の第一世紀から第三世紀ごろのものであることを見つけ出したのだった。三蔵法師よりも四、五百年も前に使われていた木簡(もっかん)であり、なんと千七百年の長い年月が経っているにもかかわらず、乾ききった砂の中にすっぽり埋まっていたおかげで、特に二枚が重なったまま発掘されたものなどは、内側に書かれた文字の墨の色が、まるで昨日のことのように鮮やかだったそうである。
この木簡を発掘した夜、スタインはさっそく自分のテントに戻り、作業を手伝っていた人夫たちを先に寝かせて、自分一人でその文字の解読にとりかかった。
その夜の寒さはとりわけ厳しく、気温はなんとマイナス四十一度まで下がったということである。
そんなテントの片隅で、スタインはこのカロシチー文字を読み解いていき、一番はじめの行に「国王殿下からの命令書」と書かれていることをつきとめた。
それは、お上の命令を伝えるための大切な公文書だったのだ。
古代インドの言葉が、この時代にはすくなくともお役所の公用文として、はるばる中央アジアのこんな人里離れた場所まで入っていたのである。
翌日、スタインはさらなる発見を期待して、昔の建物のあとの南側にあるいくつかの部屋を発掘しはじめた。
そして、その部屋が昔なんのために使われていたのかを推測しながら、最後の住人がそのまま残していった、たくさん積み重なる木簡を発見したのだった。
玄奘(げんじょう)三蔵法師がこのあたりを通った頃には、この土地はすでにカラカラに乾燥しはじめた砂漠の中にすっかり埋もれていた。
あらゆる生き物の命を押しつぶしてしまう砂の力に追われて、最後の住人たちがこの土地をあとにしてから、すでに何百年もの時間が過ぎていたのだ。
三蔵法師も、インドからの帰り道にこの道を通って、流れる砂にすっかり埋もれてしまった昔の建物のあとを目にしているのである。
地球の気候が長い年月をかけて変わっていくということは、気象学の世界ではとても大きな問題である。
もしかすると、文化地理学の世界ではもっともっと大問題かもしれない。
学者ハンチントンは、その著書『気候と文明』の中で、太古の気候の移り変わりについて語るなかで、アメリカの気候と西部アジアの気候とを比べている。

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