初級翻訳・天地創造の話 第2話

中谷 宇吉郎

これだけのすさまじい変化が地面の下で起きるからには、きっと地下でものすごく恐ろしい力がうずまいているにちがいない。
しかし、それがそのままドカンと大噴火して爆発するのか、それともこのままの程度で落ち着いてくれるのか、その先を予想するのはなかなか難しいことだった。
地面の形の変わり方がものすごく激しいことや、その変化が長い期間にわたって続いていることから見ても、相手は相当な大パワーであることだけは確かだった。
だけど、考えようによっては、これだけの大変化としてすでにエネルギーの一部が外に発散してしまったのだから、案外この程度でおさまるかもしれないとも思えた。
そう期待するには、参考になる前の出来事(前例)があった。
それは明治四十三年の有珠山の噴火のことだ。あの時は今回ほどではなかったけれど、やっぱり大きな異変が起きた。そのときの兆しをしっかりキャッチして、当時の室蘭警察署長の飯田さんが、すごい思い切った手段で近くに住む一万五千人の住民に「すぐに逃げなさい!」と命令して、大きな災害を未然に防いだという歴史があったのだ。
今回はそのときよりももっと大規模な異変がすでに六ヶ月も続いている。だから、「もし噴火が起きるものなら、とっくに起きているはずだ」という見方をする人たちもいた。
だけど、そんな根拠のない「こうだったらいいな」という期待は、あっさりと裏切られてしまった。なんと六月二十三日の朝、ついに大爆発が起きて、モクモクと噴煙(ふんえん)が上がり始めたのである。
場所は、有珠山のまわりを囲むようにならんでいる山の一つ、松本山のすぐ南の方に近いところだった。
松本山は高さが二百三十九メートルあって、まわりのいくつかの山の中でも目立って高い山だったけれど、この新しく生まれた火山は、見る見るうちにグングンと盛り上がっていって、あっという間に松本山をずっと下に見下ろしてしまうほどの高さまで大きくなったのだ。
最初の爆発から、新しい火山が生まれていくその瞬間まで、ずっとスケッチをしたりメモをとったりして、千年に一度あるかないかのとびきり貴重な記録を残し続けた人がいた。
それは、壮瞥村(そうべつむら)の郵便局長だった三松(みまつ)さんという人だった。
私たちは、その三松さんの記録のおかげで、この世紀の大事件がどんなふうに進んでいったのかを、お家にいながらにして知ることができるのであるほんとうにありがたいことだ。
この爆発のニュースは、新聞の片隅にほんの数行だけ記事として載った。けれど、その時期がちょうど、あの戦争の勝負を分ける決定的な場面となった「サイパン島が攻め落とされたニュース」とちょうど同じころだったこともあって、国中が大変な興奮と不安の渦に巻き込まれていた当時の国民の中で、その小さな記事にチラッとでも目を留めた人はほとんどいなかったに違いない。
しかし三松さんは、その後も日本中を悲しませるニュースが次々と飛び込んでくる中で、じっくりと、そしてていねいにこの記録をとり続けたのだ。
何回目の爆発のときだったかは忘れてしまったけれど、爆発の写真を撮ろうと何度もチャレンジして苦労していた福富教授が、ついにその撮影に大成功して、そのとびきり貴重な写真を持ってきてくれたことがあった。
「いやあ、ちょうど運がよかったんですよ!
噴火口から百五十メートルくらいのところまで近づいたときに、この爆発が起きたんです。
慌てて写真をパシャリと撮ったんですが、もうそのときにはこんなに大きな石がまわりにドカドカと落ちてきましてねえ。
さあもう、リュックサックも何もかもぜんぶ放り出して、命からがら逃げてきたんです!」
そう言って、自分で持ってきた写真にうっとりと見とれている先生の顔には、その少し前にテニヤンの戦いの悲劇でかわいい弟さんを亡くしたばかりの悲しみの影なんて、少しも感じられなかった。
六月二十七日の二回目の爆発のときには、火口ができた平らな土地は、もうすでに六十メートルほども高く盛り上がっていた。
そして、最初のドロドロとした泥流(でいりゅう)がブシューと押し出してきて、下の沢(さわ)をすっかり埋めてしまった。
この泥流は、有珠山の噴火のときにはいつも決まって起きるものだった。
噴火湾と洞爺湖(とうやこ)に挟まれたこのあたりは、地面の底にものすごい量の水分が隠れていると考えられていて、それが噴火の勢いといっしょに一気に地表へ押し出されてくるのだろうと言われていた。
七月に入ると、火山の活動はますます激しさを増していった。
山はまるで地の底からニョキニョキと生えてくるみたいに、どんどん高く盛り上がっていった。
火口のまわりは真っ白なモヤ(濃いガスや湯気)で包まれてしまって、山の姿もはっきりとは見えない状態だった。
ときどきドカンと響く爆発の音や、ただの地震とは思えないような激しい揺れ、そして地底から聞こえるゴーッという地鳴りにずっと脅かされる日が続いた。
爆発が起きるたびに、噴火ならではの大きなタワーのような雲(塔状積雲)が、モヤに包まれた山のてっぺんに高くモクモクと立ち上り、夜になるとその雲の中に真っ赤な火柱がボーッと燃え上がるのが見えた。
火山灰が降ってくる範囲はだんだん広がっていって、洞爺湖のまわりから徳舜瞥(とくしゅんべつ)のほうまで及び、何千町歩という広大な畑が三センチ以上も厚く火山灰をかぶってしまい、育てていた作物はすべて全滅してしまった。
見渡すかぎりすべてが灰の灰色一色になってしまい、かつての緑色の景色なんてどこにもない、まるで別世界のような風景に変わってしまった。
まわりの山に生えていた木々はもちろんぜんぜんダメになってしまった。
あたり一面が緑色だった松本山も、あっという間に熱い灰の山になってしまい、七月七日の報告にはすでに「松本山は丸坊主になって、すっかり低くなった」と書かれているところを見ると、新しく生まれた火山はものすごいパワーでグングンと盛り上がっていったらしい。
その後も地面の盛り上がりは止まることを知らず、一日に一メートルくらい、火口のまわりにいたっては数メートルというすさまじい勢いで山が大きくなっていった。
そして、寒い冬を乗り越えて、昭和二十年の春を迎えたころには、ほんの昨年まで普通に畑があった場所に、なんとまわりの長さが二キロ、高さが四百五メートルもある巨大な火山がドンとそびえ立ち、てっぺんの真ん中にドーンと突き立った立派な円形の山頂からは、今でも元気に噴煙をモクモクと吹き上げている――そんな「奇蹟の山」が目の前に突然あらわれたのである。
一生のあいだに二度と見ることができないようなこの地球の大異変を目の前にしながら、私は一日一日をやっとの思いで引きずられるようにして、戦争のための研究(戦時研究)にばかり夢中にさせられ、一日二日の休みをとることすらできなかった。
いや、それだけの元気や気力すら出なくなってしまうほど、心も体もへとへとに疲れていたのだろう。ところがその夏に、幸いこの新火山の近くの飛行場で、或る研究をすることになったのを機会に、一日を潰して全教室員で見に行くことにした。
案内は福富教授である。

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