ぼくは昨日でちょうど十一歳になった。
誕生日のお祝いに何がほしいかとお母さんが聞いてくれたので、ぼくは日記帳がほしいと答えた。
するとお母さんはさっそく、上等なやつを一部買ってくれた。
お姉さんたちは三人ともみんな日記をつけているから、ぼくもつけていないとなんだかかっこがつかない。
物事ははじめが肝心だっていうしね。
「最初に会ったときイヤだと思った人は、いつまでたってもイヤなものよ」とは、お花お姉さんがいつも言っていることだ。
だからぼくも、この最初の大切な一歩をうまくやろうと、いろいろ考えてみたんだけど、どうにも面白いことが書けない。
すべての物事には、ちゃーんと始まりがある。
お正月は「あけましておめでとう」で始まり、えらい人の演説は「満堂の紳士淑女諸君」で始まり、手紙は「拝啓、前略」で始まる。
だけど、日記はいってい何から書き始めればいいものか、スタートのやり方がさっぱり分からないから、もう全然見当がつかない。
これじゃあ困っちまうよ。
そういえばお花お姉さんはいったいどんなことを書いているんだろう、一つお手本を見せてもらおうとナイスな思いつきをしたぼくは、こっそりとお姉さんの部屋へと忍び込んだ。
ふだんお姉さんが机の引き出しにしまっているのは知っていたけど、しっかり鍵がかかっていたから、合う鍵を探し出すのにめちゃくちゃ苦労したさ。
そりゃあ、大事な日記帳だもん、鍵をかけておくはずだよ。
中を開けたら、ぼくの悪口がけっこうたくさん書いてあった。
第一、ぼくのことを「太郎、太郎」って呼び捨てにしているのがすごく気に食わない。
「太郎のおしゃべりが、みんなしゃべっちゃった」なんて、書かれ方がものすごく厳しい。
どっちがおしゃべりなんだって話だよ。
まあ、お説教や仕返しはあとにするとして、お姉さんが帰ってこないうちにと思って、ぼくは一生懸命、丁寧に一ページまるまる書き写したんだ。
日が暮れると間もなく、富田(とみた)さんがやってきた。
富田さんはほとんど毎晩のように遊びに来る。
体ががっしりしていて、岩みたいにごつい骨格をした男だ。
顔立ちはお世辞にもかっこいいとは言えなくて、ご丁寧に「独り身」なんだけど、お金は大層持っているらしい。
お島(おしま)の話によると、富田さんはお花お姉さんにかなり夢中らしいんだけど、トランプで参ったのか、ピンポンで参ったのか、そこらへんの詳しい事情までは聞いていない。
ぼくが例の日記帳を胸に抱えて、得意満面で客間に入っていくと、富田さんはいつもの赤ら顔をテカテカと光らせながら、
「やあ、太郎さん、ごきげんかね」
と言って、キャンデーをくれた。
ぼくはこの人のこと、別にそこまで嫌いじゃない。
君が持っているのは何なのだねと聞かれたから、「これは日記帳です。買ったばかり、もらったばかり、書き写したばかりのホヤホヤです」と答えた。
すると富田さんは、ますます見たそうにしていたから、見せてやったんだ。
「ふーむ、こりゃ豪勢(ごうせい)だねえ。
金ぴかの縁がついているじゃないか」
と、富田さんは物知り顔でぼくの日記帳をしげしげとながめている。
お姉さんに気に入られたくて、ぼくの機嫌までとろうとしているんだろうけど、「豪気だの豪勢だの」なんて下町っぽい言葉を使ってちゃ、プライドがやたらと高いお花お姉さんに好かれるわけがない。
それでも富田さんが、
「花子さん、これから私が太郎さんの日記を朗読しますから、歌子さんもお行儀よく聞きなさい」
と言って椅子から立ち上がったとき、お花お姉さんもお歌お姉さんも、「やめてよ!」というふうに小さくうなずいた。
ぼくも、おもしろそうだなと思って、特に反対しなかったんだけど、今になって思えば、あのとき絶対に止めておけばよかった。
とうとう大変なことになってしまったんだ。
富田さんはそんな空気はお構いなしに、エヘンと気取った咳払いをひとつして、さっそく読みはじめた。
「富田さんなんか、もう二度と来なければいいのに。
日曜日の晩にもやってきて、本当にうるさくてたまらなかった。
私はあの人のことがどうしても嫌い。
お金持ちだってお母さんは言うけれど、財産が人間のすべてじゃないわ。
いったい誰が好き好んで、こんな若い身空であんな人のところへお嫁に行くもんですか。
お母さんだって若いころの思い出があるでしょうに、本当に少しは私の気持ちになって考えてくれてもよさそうなものだわ。
あんな鬼みたいな手をして、不格好なことこの上ないわ。
『貸家が何軒ある』とか『土地をどれくらい持っている』とか、それ以外のまともな口もきけない芸なしのくせに。
歳を考えもせず、まああの赤いネクタイは何かしら。
本当に見ていて虫酸が走るくらい気取った人だわ。
第一、趣味が低すぎる。
低いどころか、完全にゼロだわ。
この間だって、帰りがけに私をつかまえて、失礼なキスをしようとしたり……あんな奴にキスされるくらいなら、私は伊勢エビにキスしてもらう方がましだわ。
同じ人間なのに、どうしてこうも違うのかしらね。
ああ、清水(しみず)さん! 清水さんは今ごろ怒っていらっしゃるかしら。
この間もなんだか妙にいや味なことを言っていたけど、どうして世の中ってこううまくいかないものなのかしら。
男らしい男の人びとが貧乏で、富田さんみたいな人が大金持ちだなんて、本当に世間は人をバカにしているわ。
もしも清水さんが富田さんで、富田さんが清水さんだったら……おや、違うわね。
清水さんが富田さんで、富田さんが清水さん――じゃあやっぱり都合が悪いわね。
あーあ、なんだかわけが分からなくなっちゃった!」
お花お姉さんは日記帳を取り返そうと、ものすごく焦って飛びかかったけれど、富田さんは小柄だけどお姉さんよりは背が高い。
お姉さんが取られまいと背伸びして手を高く上げるから、富田さんはヒョイと手を上に避けて、どうしようもない。
ついに最後まで読み切ってしまった。
そして案の定、お花お姉さんは本当に伊勢エビみたいにまっかっかになった。
ぼくが「やばいな」と思った矢先、富田さんが突然ぼくの手をがっしりと掴んだので、心臓が止まるかと思った。
「おい太郎くん、これは君のイタズラなんだろう?」
「ううん、ぼくじゃないよ!」「お花お姉さんの日記を、僕が書き写したんです」
と、ぼくは嘘をついちゃ悪いと思って、本当のことをそのまま答えた。
これで富田さんがワシントンのお父さんくらい物わかりのいい人だったら、「いやあ、私は『大馬鹿三太郎』と書かれても、一言も文句を言わない、こんなかわいい太郎くんを持てて幸せだなあ!」なんて言って、めちゃくちゃ喜んでくれたかもしれない。
だけど、あいにく相手はそんな人じゃないし、ぼくもワシントンじゃないんだから、今さら何を言い訳したってどうしようもない。
あーあ、いっそ嘘をついとけばよかったよ。
富田さんは見る見るうちに顔を真っ青にして、何か言いたそうに口をモグモグさせていたけれど、結局「グーイ」と喉を鳴らしただけで、一言も喋らずにそのまますごい勢いで出ていってしまった。
玄関のドアが壊れちゃうんじゃないかって思うくらいの、ものすごい大きな音がしたよ。
コメント