初級翻訳・ばけものばなし 第3話

ばけものばなし

 ヨセフだったか何だったか忘れたが、とにかく二人の老夫婦のような人たちのところへ現れている天使は、その体が透き通っていて、背景の景色や物がすっきりと見えているのだ。
 まさに幽霊のようで、足のあたりもぼんやりとしてハッキリしない。
 こうした美術についての詳しい批評はこの本の本筋ではないのでわざと省くが、とにかく芸術というものは、後世になればなるほど、つまり人間が科学的になるにつれて、実写的に(ここで言う写実的とは少し違うが、何でもかんでも本物らしく見せようとする自然主義的な傾向をもって)描きたがるものなのだ。
 映画(活動写真)がみんなに喜ばれるのは、まさにその理屈があるからである。
 だから幽霊も、古い絵巻物などを見ると、足があって普通の人間と変わらない姿で描かれていることが多い。
 菅原道真公(菅公)が幽霊となって、仇である藤原時平(ときひら)のところへ化けて出るところを描いた『天神縁起』の中の菅公の幽霊も、生きているときの菅原道真をそのままの姿で描いている。
 そこでここに一つの結論を出すことができる。つまり、幽霊というものを純粋なテーマ(モティフ)として、ほかのものとは切り離し、「幽霊はこうでなくてはならない」という幽霊らしさをテーマにしたのは、どうしても円山応挙の時代以降のことなのだ。
 徳川幕府の中期以降である。
 それよりも前の時代の化けものの絵は、まだ完全に幽霊をテーマにしたものはなく、大体は妖怪をテーマに描いていた。
 これは、絵の描き方の歴史が変わってきたからであって、徳川中期以降になると、つまり、幽霊の幽霊らしさを表現する技術や、絵の流行がぴったり合致するようになってきた。だからこそ、「幽霊画」というテーマも自然と生まれてきたわけであり、画法の変化と、テーマの流行り廃りは、しっかりと結びついているものなのだ。
 徳川中期より前の時代は、その画法や絵に対する興味の持ち方が、むしろ妖怪というものを生み出すのにぴったりだったのだと考えられる。
 さて、前置きが長くなったが、これでもう「幽霊には足がない方が、より現実っぽく感じられる」という理由が分かったはずである。
 それでは、なぜ幽霊には足がないのだろうか?
 その話を始める前に、まずは私が実際に見た幽霊の話をしよう。
 それはもちろん、半分夢からさめかけたときに見た幻覚にすぎないのだが、今から八、九年前の夜中、ふと自分の寝ている布団の足元のほうに、髪をめちゃくちゃにふり乱した女が、手で自分の顔を覆っているのを見たのだ。
 驚いて、目をこすりながらよく見ると、だんだん意識がはっきりしてきて、あれは夢の続きのようなもので、ふすまの隙間から漏れてくる隣の部屋の電気の光を、夢の中の出来事と結びつけてそう思い込んでいただけだったということが分かったのだ。
 そしてそのとき私は、「なるほど、幽霊には足がないものだな」としみじみと思ったのである。
 なぜなら、私の見たその幻は、頭と手と胸のあたりだけで、その下の部分はボーッと煙のように消えていたからだ。
 この経験こそが、幽霊というものが主観的なもの(自分の頭の中で作り出すもの)であるという、一つの証拠にもなるのだ。
 人は誰でも、知り合いのことを考えたり、その人のことを思い出すときには、胸から上の姿を思い浮かべるのが普通であり、その人の足のことまで考える人はめったにいない。
 特に足にケガをしていたり、何か足に対して特別な理由がない限り、人はその人の「胸から上」を思い浮かべるものなのだ。
 これが、幽霊に足がない理由である。幽霊を幽霊らしいと感じさせるように描こうとするなら、どうしても人間のこうした実感やリアルさを写し取らなければならないのである。
 次に、「それならなぜ妖怪には足があるのだろうか?」という疑問について考えよう。三つ目入道、河童、天狗といったおなじみのものから、先ほど挙げた、あかなめ、こだま、かあにょろ、朱の盤(しゅのばん)といった変わった妖怪に至るまで、みんな五体満足で、ちゃっかりとした現実的な姿をしている。
 鎌倉時代の『百鬼夜行絵巻』に描かれている妖怪たちは、どれも妙に生々しく描かれているが、みんな足を持っていて、さまざまなポーズをとって活発に動き回っている。
 これらの絵は、つまり「得体の知れない気味悪さ(怪)」や「ぞっとするような気配(鬼気)」といった目に見えない実感を、その時々の人々の感覚に合わせて色々な形に具体化させたものであり、絵を描く職人の想像力によって、その「怪しい気配」「魔物の気配」「ぞっとする気配」といった目に見えない実感を、よりぴったりと表現したものなのだ。
 さらにまた、私たちは、目の前にある物をずっとじっと見つめていると、その「本当にそこにあるという感じ」が妙に神秘的に感じられてきたり、ときには気味悪く見えてきたりすることがある。
 妖怪や変化の中には、道具に手や足が生えたり、顔ができたりしているものがいるが、これらはまさにそうした人間の実感なかたちにしたものなのだ。
 幽霊の方はどちらかというと、「幽霊を見たときの幻覚」がテーマになっているから足がないのであるが、これとは反対に、妖怪に足があるのは、それが完全に人間の頭の中の「想像的な創作」だからである。
 特に、目がないところに目をつけたり、手や足を生やしたりすること自体が、一つの「妖怪の気味悪さ」を作り出すもとになるからである。この点に行くと、幽霊の方が現実的(リアリスチック)であるが、それだけに「怪しげな怪物」としての面白さや親しみやすさという点では、妖怪の方が勝っていると言えるだろう。

一つ目小僧の味

 私は「一つ目小僧」という妖怪を、妖怪を創り出した日本民族の一つの大いなる傑作だと思っている。ちょっと考えると、この妖怪は少しも恐ろしいことはないし、むしろおふざけの子供っぽい想像のようにも思える。だけど、そう思う人はまだ「一つ目小僧」の本当の面白さや味わいを分かっていないんだ。

一つ目小僧というものを、普段みんなが考えているよりももっと進んだ感覚で受け止めてみる時、つまり、もっとリアルに、まさに生きているものとして感じてみる時、皮膚があり肉を持った本物の生きものとして想像してみる時、それは本当に、ぞっとするほど気味が悪くて、生々しくて、そしてどこか神秘的な生きものなんだよ。

一つ目小僧を「おふざけで面白いもの」と感じてしまうのは、一つ目小僧を本物の生きものとしてではなく、紙を何重にも貼り合わせて作ったおもちゃの人形みたいに考えているからなんだ。

三つ目小僧なんかになると、一つ目小僧みたいに心の底からの実感から生まれたものというよりは、一つ目に対して、目を三つにしたものにすぎない。あるいは、ふつうの人の目にさらにもう一つ目を足して作ったような、頭で考えただけのものだから、どうしても張り子の人形みたいなニセモノっぽさがついて回ってしまうんだ。

ましてや、首をぐんにゃり長くしたり、鉄棒を持たせたり、大きな大入道にして、さらにあごにすごいヒゲを生やしたりすると、ますますお笑いになってしまう。

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